スキー場の歴史については、詳しくハイランドホール内に掲示されていた(写真)。1965(昭和40)年12月に第1リフト(シングル)ができて営業開始。その後、第2・第3とリフトが増設されていった。私は小学校時代に何回か訪れたはずだが、最も印象に残っているのは中学校時代(昭和40年代後半)。当時、中学の同級生とスキー同好会を結成していて、その仲間で何回も滑りに来た。
ハイランドホールに掲示されていた「飯綱高原スキー場50年のあゆみ」
当時、「飯綱高原スキー場だけは保護者同伴でなくても可」というルールがあり(私の中学校だけのルールか、長野市全体のものかは不明)、日曜日の朝、同級生と長野バスターミナルで待ち合わせて、バスに乗り日帰りスキーに出かけた。滑ったのはもっぱらまだシングルだった第1リフト沿い。現在のB・Cコースだった。まだ第4・5リフトはなかったと思う。
最近でも滑るのはやはりBコースが中心になることが多い。よくできたコースだと思う。バブル期を経てリフトも最大7基に増え、クワッド・ペアへと輸送力も増強された。リフト券が安いことも魅力で、長野市民にはさらに格安となるクーポンなどが配布されていた。
(左)第1クワッド上部。(以下の写真は営業時のもの)(右)第1Q上部からのBコース。
数年前に自動改札ステムが導入されたが、4時間券は1日の中で1時間ごとに分けて使えるという便利なものだった。他のスキー場でこうしたシステムは見たことがない。洒落たレストランなども少なく、むしろ無料休憩所がいくつも設置されていて、持参した昼食を食べている長野市民も多かった。私も昼食を食べに家に帰り、午後再び滑りに来たこともあるほど。
長野五輪で里谷多英が金メダルを獲得したことが、このスキー場の輝かしい歴史のひとつといっていいかもしれない。その「里谷多英コース」を売りにしようとしていた節があるけれど、このスキー場の客層と里谷多英コースはいまひとつ合致していなかったのではないかと思っている。そのコースは人気のある第1クワッド沿いから一番離れたスキー場奥(北東側)にあった。
(左)Cコース。(右)Fコース。
その後の積雪の状態を見るともう少し営業できたのではないかと思ってしまうが、もう、閉鎖が決まっている以上、無理をすることもないという判断もあったのだろう。私個人にとって最も多く足を運んだスキー場であり、思い出は尽きない。もうこのゲレンデで滑れないというのが、現実のものとは感じられていない。(現地訪問:2020年2月)
こちらもご覧ください
→ 「飯綱高原スキー場(その1)」
→ 「飯綱高原スキー場(その4)」
→ 「飯綱高原スキー場[ラストシーズン2]」
→ 「飯綱高原スキー場[ラストシーズン]」
→ ラストシーズンの滑走記録