木曽エリアのゲレンデの中でも長い歴史を持つ木曽駒高原スキー場は2004シーズンに営業休止。その後経営主体がかわり2005シーズンに一時的に復活したようだが、再び営業休止となっている。私は残念ながら営業している間に訪れる機会がなかったが、最後の頃はスノーボードが中心の様子で、スキーヤーにとってはなかなか足を運びにくい場所になっていた。近くにスキーヤー・オンリーの「きそふくしま」もオープンし、自然に棲み分けがされたのだろうか。このゲレンデの根強いファンも多かったように聞く。
木曽方面に所用で行った帰りに立ち寄ってみる。国道19号線から東の方向に7kmほど上っていったところ。長野市に住んでいると木曽あたりの様子はいまひとつわかりにくいのだが、周辺はかなりの規模の別荘地になっている様子だ。
ゲレンデ周辺には数箇所の駐車場が設けられ、それらの満車・空車状況を示す掲示板が入口に設置されている。ゲレンデ正面の駐車場は立体駐車場のようなかたちで、かなりの数の車を収容していた様子をうかがわせる。ゲレンデを見渡すと、その規模の割にリフトの設置数が多い気がする。それほど賑わった時期があったということなのだろう。ゲレンデ最低部のスタートハウス・レストハウスという建物や、少し登ったところのレストランウッディ、そしてリフトの施設も完全に残っていて、少し整備すれば再び営業を開始できるように見受けられる。
このゲレンデで特徴的なのは、ゲレンデを見おろす高い鉄塔に設置された巨大なスピーカー。音楽を流しているスキー場は多いが、これほど巨大なスピーカーは珍しいのではないか。スタートハウスの一角には、「DJブース」という小部屋もあり、音楽を聴きながらボードを楽しむ人々の姿が脳裏に浮かぶ。私個人は、スキー場はできるだけ自然に近い状態のほうが望ましいので、音楽は不要だと考えているが、これも往時の賑わいを示すものとして微笑ましい。
こちらもご覧ください → 木曽駒高原スキー場[その2]
→ 木曽駒高原スキー場[その3]
木曽駒が閉鎖していたなんて…。
こんにちは、初めまして。
私も学生時代にスキーブームの中にいた一人でした。当時の彼女につれられてスキーデビューしたのを覚えております。
が、結局パラレルの壁を越えられずやめていった人間の一人です。回数は行ったのですが上達しなくてそのもどかしさといったら…。(いま考えてみたらそれほど行ってなかったのかもしれません)
うまくなりたくて自分としては粘り強くやったとおもうのですが、結局社会人になって仕事の忙しさを理由に徐々に…という感じです。
仕事の関係で木曽に3年ぐらいいたのですがその時に木曽駒さんにお世話になりました。ナイターにいったのですが夜おそくまでやっていて、そのうえ値段も安くて最高でした。
この後名古屋に転勤が決まりそれがきっかけ(うまくならないいいわけといったほうがいいのでしょうか)スキーが自分から遠のいていきました。
あれから十数年後、現在長野に在住しているのですが、子供が学校でスキー教室があるとのことで慣れのため連れていったのですが、それがきっかけでカービングスキーというものにずっぼりはまってしまいました。いまでは子供と毎週土、日欠かさず行っております。(ちょっと月曜がきついですが^^;)
それで今度木曽駒にでも久しぶりに行ってみようかなと思いHPを調べてみたのですが、閉鎖していると知りびっくりしました。
閉鎖された思い出のスキー場が写真付きで出ているとさすがに切ないですね。
1日じっくり拝見させていただきました。自分は甲信越地方の大学に行ったので野辺山、青木湖、ARAIなど閉鎖情報はさすがに大変ショックを受けました。中でも木曽駒のこのブログはどうしても寂しくて一日に一回は見てしまいます。心の奥底で「なぜなんだ~」とか「また営業再開してくれ~」と思いながらです。
スキー場が減っていくのはすごく痛ましい…。この間会社のお昼休みに見ていました。思わず「ああ、なんとかしてスキー場を救いたい、救済したい」と声に出してしまいました。そしたら上司がすかさず笑いながら「そんなこと言うのだったらまずうちの会社を救済してくれ」と返されてしまいました。
巷では冬季オリンピックが開催され、スキー、スノボー部門において日本にも活躍が期待されているスター選手が多数いるのにもかかわらず裏でスキー場の閉鎖が進んでいるのは悲しい限りです。
自分は今後できる限りスキーをつづけていくつもりですが、10年、20年後は暖冬の影響や、スキー人口の低下でスキー場の閉鎖がより進んでいくのでしょうかね…。
急行野沢さんのかつてはこうだったらしいという歴史文を読むと一段と胸が痛みます。
また明日、明後日もきっと最新情報も含めて見てしまうと思います。「新しくスキー場が閉鎖しないで」と思いながら…。
このようなブログを始めながら、一方でひとつでも多くのスキー場が生き残ってほしいという気持ちでいます。ただ、スキー場の減少が不可避なことならば、スキーによって楽しい時代を過ごさせてもらった私のような者には、その記録を残すことが「追憶のゲレンデ」に対するせめてもの恩返しではないかと考えています。
このスキー場、一度だけ訪れたことがありました。記憶があいまいで確信が持てなかったのですが、場所など調べているうちに思い出しましたので記載しておこうと思います。
学生時代からの友人たちと4人で木曽福島スキー場を目指して行った時の話です。確か木曽福島町のくるみ屋という民宿に泊まったと思います。年老いたご夫婦が半分趣味で経営されていたところで、とても温かい雰囲気の民宿でした(今は廃業なさっているようです)。お風呂は小さいのですがヒノキ風呂でとてもいい感じでした。
到着したのは夕方で、ナイターに行こうということになり、くるみ屋さんに紹介していただいて行ったのが木曽駒高原スキー場でした。木曽福島町から比較的近く、斜面はなだらかで、スキー初心者の友人を連れてきている身としては有難いスキー場でした。
意外にもナイター設備はカクテル光線でとても明るく、楽しい気分になれたことを覚えています。
ちなみに翌日行った木曽福島スキー場は雨が降っていて早々に宿に戻ってしまいましたので、そちらのほうはあまり覚えていません。最後の日には妻籠へ足を伸ばして観光をして帰りました。
復活スキーヤーさんほどには思い入れは無いのですが、このスキー場の話を聞くと友人たちのことやくるみ屋さんのことが思い出されて懐かしいです。
・・・何だか、青春(死語?)のスキー人生の話には欠かせないスキー場です。
設備はまだ残っているようですね、1シーズン限りでも復活があれば、今度は娘を連れて出かけたいです。
木曽にしてはけっこうおしゃれなスキー場だったと思います。
ボード可になって何年かで閉鎖となってしまったのではなかったでしょうか?
一度再開した時にたしか行きました。何年前だったか、クワッドのみの営業で一日券が1,500円だったと記憶しています。
いろんな思い出のあるスキー場でした。
私も20年前、スキーブームに混じっていました。新和木曽駒はホームゲレンデで隔週で出かけておりました。夜の10時ごろ名古屋を出発し、19号を約2時間半走り、夜中に到着し、車中泊。朝一からナイターと狂ったように滑り、大渋滞の19号を帰る、といったパターンを21才から28才まで続けていました。
中級者向け、ゲレンデの規模の割に沢山設置されたリフト、綺麗な設備、レストハウスととても気に入ったおりました。結婚してからスキーから遠ざかり、新聞で倒産したことを知りがっかりしていました。
その後、偶然にもこのサイトを見つけ、復活スキーヤーさんのように1日中みていました。スキー黄金時代を築き、訪れたゲレンデが沢山閉鎖されてくことは寂しい限りです。
スキーシーズンにスキーキャリアを積んだ車やスキーツアーのバスを見ることがほとんどなくなり、スキー人口現象を嫌でも感じます。
マスコットキャラクターのモモラがゲレンデに登場したり、ゲレンデ放送に専任のDJがリクエストに答えてくれる、といったサービスも魅力的でした。
19号から比較的近かったためチェーンを装着することもほとんどなかったですね。
ゲレンデ内に2軒くらいペンションがあったけどどうなったかなあ?
こうして文章を書いていると、木曽駒に一緒に行った友人や道中の会話が懐かしく思い出されます。
素敵なブログをありがとうございます。
今後の更新も楽しみにしています。
一番手前の右から左へ降りるゲレンデが一番すきでした。本当に固いゲレンデで、そのおかげでエッジづかいががうまくなりました。
名古屋からは、中央道で中津川まで行き19号をひた走り、最後に右折して道なりだったと思います。帰りの19号渋滞では、途中のレストステーションでトイレ休憩によったことも懐かしくおもいだしました。
パイプができたときには、はじめてだったのでドキドキしながら、度胸だけで入って激しくころんだりもしました。
いまでも脳裏から離れないのは、センターハウスで作ってくれる800円ぐらいのおおきなハンバーガーです。すっごく好きだったけど、ボードメインへと改装したのと同時になくなってしまい、パーク場に変貌してからは、足が遠退いてしまっていました。
あの頃は何時間渋滞しても楽しくて仕方ありませんでした。
なくなったことを知って、なんか時代の流れを感じ、ちょっと寂しく思いました。
いつも拝見させて頂いております。
木曽駒高原スキー場は私にとって
青春の思い出が詰まった場所です。
特にテクニカルなスキー場ではありませんでしたが
非常に整備が行き届いた所でした。
そのため 時にデート、時に練習に使わせてもらいました。
特に、ナイターに入る前の時間には一時的に閉鎖され
ピステをかける…なんということもありました。
今となっては過去の思い出でしかありませんが
あの時のことを最近のことの様に覚えています。
閉鎖されてかなりの時間が経ち昨今の時代背景を考えると
再開されることは考え難いと思われますが
もしものことがあったらば同窓会に出席する時の様な
気持ちになるんでしょうね…
このコメントを書き込みしながら昔を思い出して
久しぶりに少しだけドキドキしました(笑)
このスキー場のふもとの民宿で過ごしていました。モモラのゆるキャラ、懐かしいです。子供たちと一緒に写真、撮ってあります。スキー場は閉鎖されたけれど、その民宿の家族の人達やなじみのお客さんに会いに、毎年出かけ、大好きなお酒を楽しんでいます。
スキー場の中の、ペンション、一軒は今も、時々、お客さんがお見えになっているようです。大阪からこちらに移り住んで、まだ、頑張っているって聞きました。閉鎖されたので、何年か前は、そのペンションの前から、雪の積もった道路を、ゲレンデ代わりに、滑って遊んでいましたよ。
あの当時、DJブースでリクエストなんかを読んで、DJをしていた方のお名前、もしかしたらピエール北川さんでは、なかったかと思うのですが、ご存じないですか?先日、たまたま、鈴鹿サーキットでのトークショーで、昔、スキー場でDJをしていたと、おっしゃたのを聞いて、もしかしたら、そうじゃないかな~って思い、いろいろネットで探していた次第です。
懐かしい記事をありがとうございました。
よく名古屋からナイターに行きました。20年近く前ですが、当時は賑わってましたね。DJブースがあり、流行り始めたスノーボードとともに栄えていました。
バーンも硬くてレースの練習には最適でした。懐かしい記事ありがとうございました。
独身時代から行ってましたね。
結婚してからも初心者のカミサン連れていきました。。。ナイターが長い時間やってたから名古屋から毎週いってました。カミサンも上手くなり3シーズン目で2級取得してさあこれからだ!なんて言ってたら1回目の閉鎖。寂しかったね~。ショックでした。
再オープンしたって聞いてすぐいきました。
リフト券売り場でスタッフさんに「オープンおめでとうございます」って声をかけたらほんとにうれしそうに「ありがとうございます」って笑顔でかえってきました。 2回目の閉鎖って聞いた時はこれで終わりかもというかんじでした。 スキーはまだ続けてます、もう30年も続けてますよ周りはだれもやってませんけどね。
20年前、関西出身の私が名古屋に配属され、社会人でスキーデビューしました。はじめは会社の同僚と志賀高原へ泊りで行ったりしてましたが、本屋で電話帳の様なスキー場ガイドブックを手にし、近場でナイター営業してる事が気になり、一度行ったらハマってしまいました。勝手に「マイゲレンデ」と称し、ほぼ毎週土曜日の夕方にスタッドレスタイヤに履き替え、反対車線のスキー帰りの渋滞を尻目にスイスイと19号をひた走り向かった事を思い出します。いつも一人で行ってたので24時終了まで何本滑れるか、体育会系のノリでひたすら滑ってました。お陰様で、他の誰よりも上達し、人に教えられるほどになりました。一人のゴンドラはさびしかったですが、音楽が流れてるのが、イイ感じでした。帰りは眠気覚ましに大音量でtrfなどを聴いて帰ったのも良い思い出です。他の人の書き込みを読むと、更に懐かしさがこみ上げてきました。GoogleMAPの航空写真もたまに見てしまいます。残念!!
ナイターも人が多い割りにリフトが輸送能力があったせいでストレスが少ないゲレンデでした。
ナイターで滑るにはほぼ全面が滑れるいいゲレンデだったと思います。
木曽駒高原は古くからの別荘地でゴルフ場、テニスコートもあり通年のリゾート地でした。
一番ケチがついたのは、オーム心理教の教団施設に古い別荘が買い取られたことでした。
運営会社の破綻は本業のほうが
なんともならなくなったとも聞きました。
昔は高速が近かった?木曽地区がスキー客の集客力が大きかったんですが、今は奥美濃方面が高速が近くなって中心地が変わってしまったということでしょうか?
ナイター営業も電気料金に食われて収益に寄与しないという話も聞いたことがあります。