2009年05月02日

燕温泉スキー場(新潟県妙高市)

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(左)第1リフト乗場 (右)薬師ゲレンデ。5月にはいってもまだ、雪が残っていた。

燕温泉は妙高山麓の名湯として知られ、山岳スキーでも古くから知られている。私はずいぶん前に妙高山に登ったときに、ここに下山して温泉で疲れをとって帰宅したが、しばらくは身体から硫黄の匂いが消えなかった記憶がある。急坂の温泉街に7~8軒の温泉旅館・ホテルが軒を連ねている。白濁した硫黄臭の強い、いかにも温泉!という泉質の温泉である。

この燕温泉の裏山のような場所にペアリフト2基のゲレンデが開かれていた。どちらかというと中上級向きのゲレンデといえるだろう。山岳スキーの延長といった雰囲気が強かったと思う。2006年で営業休止(廃業)となっているが、現地に行ってみたところリフト施設はほぼそのまま残っているようだった。

「'86 SKI GUIDE(山と渓谷社)」によれば「弘法大師が発見した妙高山麓48湯のひとつ燕温泉の地にあり、神奈山と前山の狭間北斜面に位置する。ゲレンデは良質な雪質に恵まれ、積雪も豊富でシーズンも長く、例年5月の連休にはリフトを運転しており、春スキーを楽しむスキーヤーでにぎわう。明治の末、日本にスキーを紹介したレルヒ少佐がこの地ですべりスキー技術を伝えたことは有名。」と紹介されている。標高1,100~1,350m。リフト架設は1956年(昭和31)。

さすがに雪深い土地であって、5月にはいってもまだゲレンデには雪が残り、そり遊びをしている子どももいた。

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こちらもご覧ください→「燕温泉スキー場(その2)(2011年11月30日)」
ラベル:新潟 妙高 スキー
この記事へのコメント
 こんにちは初めまして。私もバブルの全盛期、学生時代にスキー場を巡り歩きました。懐かしのスキー場レポートを楽しく読ませていただいています。
 燕温泉の思い出は、今から約25年程前中学1年から高校3年までスキー部の合宿に針村屋さんに通っていました。その頃は、妙高高原駅前で笹寿司を食べ、タクシーに乗って、赤倉へ行きました。3通りの行き方がありました。①赤倉まで雪上車で迎えに来てもらう。②リフトを乗り継いで、関見トンネルまでいき、モービルに迎えに来てもらう。③チャンピオンリフトから荷物を担いだまま、崖を滑り降り燕坊主ゲレンデへ降りる。
関温泉からの道が冬期閉鎖していた頃です。帰りはいつもリックを背負って、スキーを1台担いで赤倉まで滑って降りました。
関見トンネルから、燕に行く途中ハイランドロッジがありロープトーがかかっていましたが、いつも雪に埋もれていて動いているのを見たことがありません。
 1月には東京都のインターハイ予選がありました。『つぼあし』が当たり前。あまりに雪が深すぎて、板がはずれると、1時間ほど探したこともあり、ストッパーが出始めの頃でしたが、ラングリーメンも併用してました。転ぶとまずは空に向かって穴をほり、空気穴を確保して、生きていると実感しました。シングルリフトしかなく、雪の壁の間をリフトが進みました。いい思い出です。
 大学時代、関温泉から冬も道路が開通したと聞きドライブがてらいきました。西武系になり薬師リフトがペアになっていました。
 しばらくしてバブルがさり、西武のスキー場破綻とともに営業しなくなったと聞きました。残念です。
 いつか露天風呂に行ってみたいと思っております。
Posted by swallow at 2010年02月11日 22:13
swallowさん 燕温泉のお話をお寄せいただき、有難うございます。赤倉から燕へのアプローチは、下手をすれば生死を分けるような世界ですね。私はその時代には燕に行ったことがなかったので、貴重な体験談を聞くことができました。
Posted by 急行野沢 at 2010年02月12日 18:08
学生時代に毎年研究室で燕温泉へスキーに行っていたことを思い出して、検索したところ、このページにたどり着きました。深雪の名所だったのですが、さすがにもう閉鎖だったんですねえ。
もう30年前になります。たしか花文さんにおせわになっていたと思います。昼休みはリフトが止まって、宿に戻ってカレーを食べました。ワインとパンを持って、ゲレンデで食べたこともあります。リフトが止まっていると、雪の中はほんとうに静かで気分がよかったのを思い出します。
私のころもストッパーが出始めで、私はもっていなくてうらやましかったのですが、ここではストッパーは役立たずでした。行きも帰りもたいへんでしたが、普通の大規模スキー場では体験できないことがたくさんあって、なつかしい思い出です。
Posted by yama at 2010年05月01日 09:41
yamaさん 燕温泉の懐かしい話、有難うございます。スキーの楽しさが伝わってくる気がします。
Posted by 急行野沢 at 2010年05月01日 09:58
学生時代、大学のスキー教習で毎年燕へ行ってました。
(本当は1年だけでよいのですが、教授に無理を言ってもぐりこんでました)
関見のトンネルを越えると別世界。
まさにスキーだけの世界でした。
こちらのページで閉鎖をしって不覚ながら涙が出てしまいました。
燕温泉で取ったSAJ2級の証明書が宝物です。。
Posted by 御園座の怪人。 at 2011年01月02日 20:04
次週赤倉に家族と共にスキーに行くに当たり調べていた所、昔を思い出し余分な検索をした結果ここにたどり着きました。26年程前の中学1年から高校3年まで東京都の大会の為に燕温泉に行っていました。よくもこのような僻地があるものだと当時は思っていましたが、今では学生時代の思い出の沢山詰まった場所です。本日閉鎖している事を知って寂しさを覚えています。21年前の今日、昭和天皇の崩御を知ったのも燕温泉での大会を終えた夕刻の事でした。熱い温泉、湯の華、石段の両脇に構える温泉宿と食堂、深い雪、錆付いた低速のリフト、整備の悪いコース、どれをとっても今では良い情緒としての記憶に置き換わっています。このページで閉鎖を知った今、今後益々「不便」を楽しめる生き方をしたいと思いました。
Posted by kd365 at 2011年01月07日 19:31
燕温泉スキー場が閉鎖されたとの事。非常に残念に思います。今から46年前大学生の時に笹屋旅館でスキー学校のアルバイトをしていました。12月から3月一杯、スキーに明け暮れの毎日でした。深雪滑りの雪質の素晴らしさや温泉の良さ、青春の一ページを飾る最高の思い出のスキー場です。毎年東京の武蔵高校の生徒さんや関西方面からの学校の学生さん達が大勢訪れてきて賑やかな
アットホームな温泉街でありスキー場でした。
燕スキー場の記事を読ませていただき懐かしく思い一言書かせて戴きました。
Posted by 鈴木隆昭 at 2011年02月08日 17:20
いまから46年も昔の貴重なお話をお寄せいただき、有難うございます。当時の温泉旅館の温かさが伝わってくるようです。
Posted by 急行野沢 at 2011年02月08日 20:07
こんにちは。「燕温泉スキー場」。。とても懐かしい響きです。45年位前でしょうか、小学校3年の私は初めて本格的にスキーを始めることになりました。父の知人達のグループが、その子供たち20人くらいを集めて毎年年末年始の一週間を燕温泉で過ごすスキー合宿のようなものに初めて参加することになったのです。親から離れての一週間でしたので、自分としては、ドキドキしながら不安だったのを覚えています。新潟駅から、急行「赤倉」に乗り、降り立ったのは「田口駅」でした。駅前の食堂で昼食をとってバスで赤倉温泉街へ。バスの後部にはスキー専用の荷物スペースがあったような気がします。赤倉から初めて乗るリフトを2~3本位乗り継いで関見トンネルに到着。そこからはスキーとリュックを担いでの徒歩だったような気がします。雪上車が迎えに来てくれるようになったのはもう少し後だったような気がします。やっと着いたと思ったのは「ハイランドロッジ」。まだまだ先がありました。とにかく遠かったですね。

 子供たちは、高校生のリーダーに「笹屋」、大人は「中村屋」(花文)が常宿でした。 みんなでコタツを中心に放射状で寝ること、風呂の硫黄のにおい&湯花、各旅館の軒から下がるつららの大きさにはびっくりした覚えがあります。夜は旅館街の一番上にある「大日屋」(お土産& 食堂)に遊びに行くのが日課でした。 また食事の為にお昼に一旦旅館に戻るのが燕温泉でした。早くまた滑りたくて宿の窓から見える第一リフトへ向かうスロープを滑ってくる人を皆で眺めていました。何年か経って、初めて連れてかれた坊主落しゲレンデにはびっくり。ほとんど崖にしか見えませんでした。 笹屋のせがれさんに連れて行かれて、深雪の中で窒息死しそうになったのも坊主落し・サーカスでした。合宿の帰りは、卒業試験ともいえる「赤倉温泉街までの全員トレイン」。壮観でした。

こうして私のスキーは、始まりました。この合宿には高校生まで参加していましたので、
約10年くらい年末年始を燕温泉で過ごしたことになります。 結婚し、子供が生まれ
ある年の夏、赤倉に家族で旅行をした際、車で燕温泉まで足を伸ばしました。私にとってはとても大切な場所であるのですが、家族には?だったようです。ちと寂しかったです。

 それから何年たったでしょう。燕温泉スキー場の閉鎖のニュースをネットで知ったのは。
ショックでした。。。でも私とスキーとの出会いは、間違いなく「燕温泉」でした。

Posted by mojo at 2011年08月17日 07:47
mojoさん 燕温泉の大切なお話をお寄せいただき、有難うございます。「急行赤倉」「田口駅」という名には私も思い出が深く、こみ上げるものがありました。私は燕にはあまり縁がなく、小学校の頃はもっぱら妙高東山(妙高パノラマ)で滑っていたのですが。
Posted by 急行野沢 at 2011年08月17日 20:56
記憶が定かではありませんが、昔赤倉へ泊まりで行ったとき、燕温泉まで足を伸ばしたような。スキー場双方連絡してましたでしょうか?
上信越道はもちろん長野自動車道もなかったころ、遠くて大変だったのに加え雪の多さに驚きました。道路(国道?)の両側が雪の壁で、それがバスより高くてもうビックリ!!自分がいままで目にした豪雪風景ベスト1です。
雪不足には困らないエリアでも大変なんですね・・・
Posted by TECNICA at 2011年08月20日 16:20
20数年前、大学生のころ、毎年スキーに行ってました。といっても、2月や3月は、雪が深すぎて?燕温泉スキー場のリフトは動いていないことの方が多かったような記憶があります。
でも滑っていたのは赤倉です。その頃は、スキーブームでしたから、赤倉に泊まると、朝、大混雑のリフトやゴンドラに並ばないといけなかったのですが、燕温泉から雪上車で送ってもらうと、誰も滑っていない赤倉のゲレンデの中腹!
雪上車は、数人が中に乗り込み、残りはスキーを履いてロープで引っ張ってもらって・・・これもとても楽しかったです。帰りも迎えに来てもらっていました。
ある年、夜中にドカ雪になり、車がすっかり埋もれてしまって、みんなでシャベルで掘り出したのもいい思い出です。
いまでも雪上車で送ってもらったりできるのでしょうかね。
Posted by もと大学生 at 2011年09月14日 20:10
とても懐かしいゲレンデです、初めてスキーを履いたのもリフトに乗ったのも燕温泉でした、まだ昭和30年代、関温泉から雪の中を徒歩で、七曲がりを越えた果てにあった燕温泉、笹屋旅館でお客さんはみな常連さんで、長逗留の人ばかり、まだスキーが金持ちのスポーツだった頃ですね、旅館の帳場に集まり、皆、ワイワイと夜更けまでスキー談義に花を咲かせ翌朝は早くから不可雪のゲレンデを楽しんでいた、皆上級者ばかりに見えたものでした、板もヒッコリーで、カンダハの締め具登山靴のようなスキー靴、竹製のストックと今では考えられない道具でしたが皆今よりスキーを愛し、楽しんでいましたのを子供心に憧れた物でした、新聞の積雪情報でも日本一の豪雪を思わせる6mからの積雪を毎年楽しみに見ていましたがいつの頃からか関温泉のみの表示になっていて気にしていた所でした、閉鎖されてしまいましたか!とても残念です、歴史あるスキー場だったのに、もうあのゲレンデを滑る自信はありませんが!!現代のスキー場に無い魅力的なスキー場でした!
いつか再開されることを祈ります!
Posted by よたろう at 2011年10月21日 16:01
いやー懐かしい!
四半世紀前、大学のスキー実習で行きました。進学過程(1~2年)の自由参加なのですが、参加さえすれば体育の点数が無条件で90点に跳ね上がったのです(笑)
ちょっとワケ有りで3シーズン行きましたがコース下から第一リフト乗り場までの狭い回廊が長くて何気に面白かった記憶があります。
営業終了は寂しいかぎりです。
Posted by のりぼー at 2011年10月25日 01:31
燕温泉スキー場の花文さんで、高校1年の16歳の時にバイトさせていただきました。(ちなみに現在49歳)
「赤倉スキー場が下にあるのに、何でこんな狭く、キツく、段々になってる所にスキーをやりに来るの?」が当時の私の疑問でした。本当の本当に、当時は、花文さん樺太さんその上の旅館全てがスキー客で溢れておりまして、物凄く忙しく働いた記憶があります。
(東京の女子高のスキー教室宿になった時は、お姉さんにイジられた事が最もも楽しい思い出かもですが・・・テヘ。)

そもそも私が子供の頃は、スキー板を担いで斜面に登り、滑り・登り・滑り・・・ が普通でした。ので、リフトってスゲー!! でした。つまり、今の燕は、私の子供の頃に憧れた「雪がある」自然の坂になってますよ。

ちなみに、川原の湯は・・・ 知っているだけに他人には教えたくない場所です。

燕は、今も、四季に触れられる場所です。
思い立ったらどうぞ です。
Posted by まるQ at 2012年07月03日 00:25
こんにちは 燕温泉スキー場 で検索してこちらにたどり着きました
80年代,なじみのツアーがありよく来ていました
ああなつかしい
Posted by とおりすがり at 2013年01月23日 01:16
追記です
そうそう 花文の何軒か上のほう 確か右手側 味噌ラーメンがおいしかったなあ
Posted by とおりすがり at 2013年01月23日 01:20
このコメント群は、永久保存モノですね。
Posted by 地元民 at 2013年03月29日 00:36
さてさてやって来ましたよ あれ味噌ラーメンどの店だろう といっても店はすくない 一番奥の左 大日屋だったかなあテーブルがちがうがずいぶん昔だからなあ
Posted by とおりすがり at 2014年08月13日 12:52
味噌ラーメン探訪の答が出ました
ときわやです
夏はみやげ物オンリーのようですが冬は正方形の枠のテーブル(?)出してその中に石油ストーブ置いて食事ができるそうです
そう このテーブルで遠い昔味噌ラーメンをすすったのです
で 大日屋で味噌ラーメンたべたのですが
もしかしたらときわやと味,似てません?
Posted by とおりすがり at 2014年08月14日 22:00
はぁ、燕のスキー場なくなっていたのですか、悲しいです。
私は燕温泉までの道路ができた後に初めて行きました。先輩から、以前は赤倉からえっちらおっちら登るような辺鄙なとこだったぞ、と聞きました。
私にとっては道路が通っていたので往来は楽でした・・・といいたいところですが。
ある合宿にて、帰りのタクシーの数が足りず、足弱な後輩をタクシー優先させて、上級生は赤倉まで自力で降りて、そこでタクシーを捕まえる羽目になりました。
クソ重い荷物をしょってのスケーティングを続け、赤倉の上(どこだったんでしょうね、なんかトンネルくぐったら赤倉でした)に到着。荷物をしょいながら斜面を降りました。
ボーゲンで両足に荷重かけながら進むと足の裏に血が行かなくてつらい、なんて生まれて初めての体験でした。(荷物が重くても片足ずつ荷重をかけるターンを繰り返して滑りました)

どんなに雪不足でも燕でなら合宿が可能な、スキー部員の駆け込み寺のようなとこでした。
そういえばン年単位でスキー行ってないや。廃れるのも無理は無いのかなぁ・・・

夏のハイキング目的ならまだいけるのかな?
Posted by 中高スキー部員 at 2014年12月23日 00:26
はじめまして。
高校生時代同好会でスキーに初めて触れて熱中しました。春合宿で妙高国際スキー場に行きその長さと幅の広さ、野尻湖を望む景色に感動しました。その際関温泉、燕温泉があることを知りました。その名門の一角が閉鎖とは残念です。
いつかは燕温泉、関温泉に行きたいと思いつつ20数年後再び社会人として国際を滑りに行くと昔のにぎわいは無く、「国際」という名前も無かったような気がします。麓のグリーンロッジが廃墟になっていたのは寂しかった。今では後から出来た杉の原の方がメインになっているようですがまだ行ったことがありません。
スレ違いお許しください。
Posted by GTR at 2016年09月17日 04:15
ああ。
懐かしいですね。
大学の卒業旅行で赤倉へ行ったのですが、
折あしく甚だしい暖冬の年。
赤倉は到着当日の半日しか滑ることができず、
滑りに行った覚えがあります。
閉鎖しちゃったんですね。
考えてみれば、私スキで一気に盛り上がったブームは、各所のスキー場のありさまをガラリと変えてしまったんですが、その後の20年で廃業してしまったスキー場って多いですよね。
ブーム→女子が増える→女子目当てのちゃら男が増える→施設はブーマーに迎合→ブームは去ってあとには荒れ果てたゲレンデばかり…
流行りだからやってみる────ってのを否定はしませんが、どんなホビーでも、流行った後は荒れ地ばかりの焼き畑農業はいい加減やめてほしいですね。
まあ、燕の廃業は別の理由かもしれませんが。
Posted by あれあれ? at 2018年08月15日 13:05
他人のブログに燕温泉の記載があり懐かしくなって調べてみたらスキー場は閉鎖になっていたことを知りました。
私は86年、87年あたりに東京都高体連スキー部の大会合宿で年に何度も花分を利用していました。
ストリートビューで閲覧し、当時合宿した時の事がとても懐かしくなりました。
Posted by 永遠の高校生 at 2019年01月30日 18:12
 燕温泉スキー場って閉鎖になってしまったんですねェ💧
Posted by タケ at 2022年09月04日 05:26
昭和40年ごろのことですが、中学校のスキー教室が赤倉スキー場で開かれていて、その最終日、全員でリフトを乗り継いで燕温泉から関山駅までの道路をスキーで滑って降りていくというイベントがありました。
あまりの昔なので記憶が定かではなく、色々探していたらこのブログに辿り着いたという次第です。投稿されている皆様のコメントで少し昔の記憶が蘇ってきてとても幸せです。

かなりの人数のイベントで、学校の先生がところどころに立ってリードしてくれるのですが、滑り初めてすぐの七曲りが道も狭く崖も高くてとても怖かったのを覚えてます。そこを過ぎてしまえば数キロの距離はあるもののほぼ一直線に気持ちよく道路の真ん中を滑って降りて行って。なんと駅前までスキーで行けました。
駅周辺でも当時は車も少なかったのでしょうが呑気なものですね。
駅前のお店が集合場所に温かい汁物ものが用意されていて、体が温まるのと達成感を感じるのが相まってとても楽しかったという記憶が残っていますが、
実はそこで何を食べたのか思い出せない。

今地図を見ると当時とはだいぶ道が違っているようですね。七曲の下はトンネルになっていますが当時は山に沿った道だったと思います。
駅までも高速道路の迂回もなくほぼ一直線に行けたはず。
あと最後のリフトを降りて滑り始めるまでがあまり記憶がなく投稿コメントを拝見するとリフトを降りてから七曲までかなりの距離がありそうですね。
子供の足でスキーを担いで行けたのか今となっては不思議です。

こんな昔話を長々とすみません。思い出すきっかけのブログ本当にありがとうご空いました
Posted by 秋本紗戸子 at 2022年12月27日 08:12
幼稚園から中学生まで毎年のように連れて行ってもらった燕温泉、自分の子供にも教えるようになり懐かしくなって調べていたらこのブログに辿り着きました。
親の学生時代からの繋がりで泊まるのは決まって針村屋。大晦日にはみんなでこたつに入って紅白どちらが勝つか小銭をかけて遊んだり、キッチンで葛湯を作ってもらったり、お昼ご飯は大日屋でラーメン食べたりお土産のキーホルダー買ってもらったりと、思い出深いスキー場です。
雪質が大変良く子供ながらに楽しく滑っていた記憶があります。
坊主落としゲレンデで何度も何度もずっこけながら練習したものです。
今も子供に教えられられるくらい自分が滑れるのは燕温泉スキー場のおかげです。
父は早々と他界してしまいましたが、ここで教えてくれた父や父の友人、針村屋には本当に感謝しています。
Posted by とおりすがり at 2023年03月04日 13:29
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