

(左)第1リフト乗場 (右)薬師ゲレンデ。5月にはいってもまだ、雪が残っていた。
燕温泉は妙高山麓の名湯として知られ、山岳スキーでも古くから知られている。私はずいぶん前に妙高山に登ったときに、ここに下山して温泉で疲れをとって帰宅したが、しばらくは身体から硫黄の匂いが消えなかった記憶がある。急坂の温泉街に7~8軒の温泉旅館・ホテルが軒を連ねている。白濁した硫黄臭の強い、いかにも温泉!という泉質の温泉である。
この燕温泉の裏山のような場所にペアリフト2基のゲレンデが開かれていた。どちらかというと中上級向きのゲレンデといえるだろう。山岳スキーの延長といった雰囲気が強かったと思う。2006年で営業休止(廃業)となっているが、現地に行ってみたところリフト施設はほぼそのまま残っているようだった。
「'86 SKI GUIDE(山と渓谷社)」によれば「弘法大師が発見した妙高山麓48湯のひとつ燕温泉の地にあり、神奈山と前山の狭間北斜面に位置する。ゲレンデは良質な雪質に恵まれ、積雪も豊富でシーズンも長く、例年5月の連休にはリフトを運転しており、春スキーを楽しむスキーヤーでにぎわう。明治の末、日本にスキーを紹介したレルヒ少佐がこの地ですべりスキー技術を伝えたことは有名。」と紹介されている。標高1,100~1,350m。リフト架設は1956年(昭和31)。
さすがに雪深い土地であって、5月にはいってもまだゲレンデには雪が残り、そり遊びをしている子どももいた。

こちらもご覧ください→「燕温泉スキー場(その2)(2011年11月30日)」
燕温泉の思い出は、今から約25年程前中学1年から高校3年までスキー部の合宿に針村屋さんに通っていました。その頃は、妙高高原駅前で笹寿司を食べ、タクシーに乗って、赤倉へ行きました。3通りの行き方がありました。①赤倉まで雪上車で迎えに来てもらう。②リフトを乗り継いで、関見トンネルまでいき、モービルに迎えに来てもらう。③チャンピオンリフトから荷物を担いだまま、崖を滑り降り燕坊主ゲレンデへ降りる。
関温泉からの道が冬期閉鎖していた頃です。帰りはいつもリックを背負って、スキーを1台担いで赤倉まで滑って降りました。
関見トンネルから、燕に行く途中ハイランドロッジがありロープトーがかかっていましたが、いつも雪に埋もれていて動いているのを見たことがありません。
1月には東京都のインターハイ予選がありました。『つぼあし』が当たり前。あまりに雪が深すぎて、板がはずれると、1時間ほど探したこともあり、ストッパーが出始めの頃でしたが、ラングリーメンも併用してました。転ぶとまずは空に向かって穴をほり、空気穴を確保して、生きていると実感しました。シングルリフトしかなく、雪の壁の間をリフトが進みました。いい思い出です。
大学時代、関温泉から冬も道路が開通したと聞きドライブがてらいきました。西武系になり薬師リフトがペアになっていました。
しばらくしてバブルがさり、西武のスキー場破綻とともに営業しなくなったと聞きました。残念です。
いつか露天風呂に行ってみたいと思っております。
もう30年前になります。たしか花文さんにおせわになっていたと思います。昼休みはリフトが止まって、宿に戻ってカレーを食べました。ワインとパンを持って、ゲレンデで食べたこともあります。リフトが止まっていると、雪の中はほんとうに静かで気分がよかったのを思い出します。
私のころもストッパーが出始めで、私はもっていなくてうらやましかったのですが、ここではストッパーは役立たずでした。行きも帰りもたいへんでしたが、普通の大規模スキー場では体験できないことがたくさんあって、なつかしい思い出です。
(本当は1年だけでよいのですが、教授に無理を言ってもぐりこんでました)
関見のトンネルを越えると別世界。
まさにスキーだけの世界でした。
こちらのページで閉鎖をしって不覚ながら涙が出てしまいました。
燕温泉で取ったSAJ2級の証明書が宝物です。。
アットホームな温泉街でありスキー場でした。
燕スキー場の記事を読ませていただき懐かしく思い一言書かせて戴きました。
子供たちは、高校生のリーダーに「笹屋」、大人は「中村屋」(花文)が常宿でした。 みんなでコタツを中心に放射状で寝ること、風呂の硫黄のにおい&湯花、各旅館の軒から下がるつららの大きさにはびっくりした覚えがあります。夜は旅館街の一番上にある「大日屋」(お土産& 食堂)に遊びに行くのが日課でした。 また食事の為にお昼に一旦旅館に戻るのが燕温泉でした。早くまた滑りたくて宿の窓から見える第一リフトへ向かうスロープを滑ってくる人を皆で眺めていました。何年か経って、初めて連れてかれた坊主落しゲレンデにはびっくり。ほとんど崖にしか見えませんでした。 笹屋のせがれさんに連れて行かれて、深雪の中で窒息死しそうになったのも坊主落し・サーカスでした。合宿の帰りは、卒業試験ともいえる「赤倉温泉街までの全員トレイン」。壮観でした。
こうして私のスキーは、始まりました。この合宿には高校生まで参加していましたので、
約10年くらい年末年始を燕温泉で過ごしたことになります。 結婚し、子供が生まれ
ある年の夏、赤倉に家族で旅行をした際、車で燕温泉まで足を伸ばしました。私にとってはとても大切な場所であるのですが、家族には?だったようです。ちと寂しかったです。
それから何年たったでしょう。燕温泉スキー場の閉鎖のニュースをネットで知ったのは。
ショックでした。。。でも私とスキーとの出会いは、間違いなく「燕温泉」でした。
上信越道はもちろん長野自動車道もなかったころ、遠くて大変だったのに加え雪の多さに驚きました。道路(国道?)の両側が雪の壁で、それがバスより高くてもうビックリ!!自分がいままで目にした豪雪風景ベスト1です。
雪不足には困らないエリアでも大変なんですね・・・
でも滑っていたのは赤倉です。その頃は、スキーブームでしたから、赤倉に泊まると、朝、大混雑のリフトやゴンドラに並ばないといけなかったのですが、燕温泉から雪上車で送ってもらうと、誰も滑っていない赤倉のゲレンデの中腹!
雪上車は、数人が中に乗り込み、残りはスキーを履いてロープで引っ張ってもらって・・・これもとても楽しかったです。帰りも迎えに来てもらっていました。
ある年、夜中にドカ雪になり、車がすっかり埋もれてしまって、みんなでシャベルで掘り出したのもいい思い出です。
いまでも雪上車で送ってもらったりできるのでしょうかね。
いつか再開されることを祈ります!
四半世紀前、大学のスキー実習で行きました。進学過程(1~2年)の自由参加なのですが、参加さえすれば体育の点数が無条件で90点に跳ね上がったのです(笑)
ちょっとワケ有りで3シーズン行きましたがコース下から第一リフト乗り場までの狭い回廊が長くて何気に面白かった記憶があります。
営業終了は寂しいかぎりです。
「赤倉スキー場が下にあるのに、何でこんな狭く、キツく、段々になってる所にスキーをやりに来るの?」が当時の私の疑問でした。本当の本当に、当時は、花文さん樺太さんその上の旅館全てがスキー客で溢れておりまして、物凄く忙しく働いた記憶があります。
(東京の女子高のスキー教室宿になった時は、お姉さんにイジられた事が最もも楽しい思い出かもですが・・・テヘ。)
そもそも私が子供の頃は、スキー板を担いで斜面に登り、滑り・登り・滑り・・・ が普通でした。ので、リフトってスゲー!! でした。つまり、今の燕は、私の子供の頃に憧れた「雪がある」自然の坂になってますよ。
ちなみに、川原の湯は・・・ 知っているだけに他人には教えたくない場所です。
燕は、今も、四季に触れられる場所です。
思い立ったらどうぞ です。
80年代,なじみのツアーがありよく来ていました
ああなつかしい
そうそう 花文の何軒か上のほう 確か右手側 味噌ラーメンがおいしかったなあ
ときわやです
夏はみやげ物オンリーのようですが冬は正方形の枠のテーブル(?)出してその中に石油ストーブ置いて食事ができるそうです
そう このテーブルで遠い昔味噌ラーメンをすすったのです
で 大日屋で味噌ラーメンたべたのですが
もしかしたらときわやと味,似てません?
私は燕温泉までの道路ができた後に初めて行きました。先輩から、以前は赤倉からえっちらおっちら登るような辺鄙なとこだったぞ、と聞きました。
私にとっては道路が通っていたので往来は楽でした・・・といいたいところですが。
ある合宿にて、帰りのタクシーの数が足りず、足弱な後輩をタクシー優先させて、上級生は赤倉まで自力で降りて、そこでタクシーを捕まえる羽目になりました。
クソ重い荷物をしょってのスケーティングを続け、赤倉の上(どこだったんでしょうね、なんかトンネルくぐったら赤倉でした)に到着。荷物をしょいながら斜面を降りました。
ボーゲンで両足に荷重かけながら進むと足の裏に血が行かなくてつらい、なんて生まれて初めての体験でした。(荷物が重くても片足ずつ荷重をかけるターンを繰り返して滑りました)
どんなに雪不足でも燕でなら合宿が可能な、スキー部員の駆け込み寺のようなとこでした。
そういえばン年単位でスキー行ってないや。廃れるのも無理は無いのかなぁ・・・
夏のハイキング目的ならまだいけるのかな?
高校生時代同好会でスキーに初めて触れて熱中しました。春合宿で妙高国際スキー場に行きその長さと幅の広さ、野尻湖を望む景色に感動しました。その際関温泉、燕温泉があることを知りました。その名門の一角が閉鎖とは残念です。
いつかは燕温泉、関温泉に行きたいと思いつつ20数年後再び社会人として国際を滑りに行くと昔のにぎわいは無く、「国際」という名前も無かったような気がします。麓のグリーンロッジが廃墟になっていたのは寂しかった。今では後から出来た杉の原の方がメインになっているようですがまだ行ったことがありません。
スレ違いお許しください。
懐かしいですね。
大学の卒業旅行で赤倉へ行ったのですが、
折あしく甚だしい暖冬の年。
赤倉は到着当日の半日しか滑ることができず、
滑りに行った覚えがあります。
閉鎖しちゃったんですね。
考えてみれば、私スキで一気に盛り上がったブームは、各所のスキー場のありさまをガラリと変えてしまったんですが、その後の20年で廃業してしまったスキー場って多いですよね。
ブーム→女子が増える→女子目当てのちゃら男が増える→施設はブーマーに迎合→ブームは去ってあとには荒れ果てたゲレンデばかり…
流行りだからやってみる────ってのを否定はしませんが、どんなホビーでも、流行った後は荒れ地ばかりの焼き畑農業はいい加減やめてほしいですね。
まあ、燕の廃業は別の理由かもしれませんが。
私は86年、87年あたりに東京都高体連スキー部の大会合宿で年に何度も花分を利用していました。
ストリートビューで閲覧し、当時合宿した時の事がとても懐かしくなりました。
あまりの昔なので記憶が定かではなく、色々探していたらこのブログに辿り着いたという次第です。投稿されている皆様のコメントで少し昔の記憶が蘇ってきてとても幸せです。
かなりの人数のイベントで、学校の先生がところどころに立ってリードしてくれるのですが、滑り初めてすぐの七曲りが道も狭く崖も高くてとても怖かったのを覚えてます。そこを過ぎてしまえば数キロの距離はあるもののほぼ一直線に気持ちよく道路の真ん中を滑って降りて行って。なんと駅前までスキーで行けました。
駅周辺でも当時は車も少なかったのでしょうが呑気なものですね。
駅前のお店が集合場所に温かい汁物ものが用意されていて、体が温まるのと達成感を感じるのが相まってとても楽しかったという記憶が残っていますが、
実はそこで何を食べたのか思い出せない。
今地図を見ると当時とはだいぶ道が違っているようですね。七曲の下はトンネルになっていますが当時は山に沿った道だったと思います。
駅までも高速道路の迂回もなくほぼ一直線に行けたはず。
あと最後のリフトを降りて滑り始めるまでがあまり記憶がなく投稿コメントを拝見するとリフトを降りてから七曲までかなりの距離がありそうですね。
子供の足でスキーを担いで行けたのか今となっては不思議です。
こんな昔話を長々とすみません。思い出すきっかけのブログ本当にありがとうご空いました
親の学生時代からの繋がりで泊まるのは決まって針村屋。大晦日にはみんなでこたつに入って紅白どちらが勝つか小銭をかけて遊んだり、キッチンで葛湯を作ってもらったり、お昼ご飯は大日屋でラーメン食べたりお土産のキーホルダー買ってもらったりと、思い出深いスキー場です。
雪質が大変良く子供ながらに楽しく滑っていた記憶があります。
坊主落としゲレンデで何度も何度もずっこけながら練習したものです。
今も子供に教えられられるくらい自分が滑れるのは燕温泉スキー場のおかげです。
父は早々と他界してしまいましたが、ここで教えてくれた父や父の友人、針村屋には本当に感謝しています。