(左)ゲレンデがあった一帯。(右)ゲレンデ最上部。春にはカタクリが咲き乱れる。
神城スキー場は、白馬五竜スキー場の南隣の位置にあり、上部で同スキー場と接していた。第二次大戦後、白馬五竜の誕生する前から白馬村の三大スキー場として賑わい、1956年には白馬村内3本目のリフト(木柱)が設置され各種の大会も開催されたが、1982年に営業を休止している(参考資料:小山桂子・小林詢「放置されたスキー場における植生変化」)。
白馬五竜スキー場の一番南にある「とおみスカイフォーリフト」。そのリフトに沿って、ロッジなどが建てられているが、その南側を上っていったあたりが神城スキー場の所在地だったようだ。神城スキーヒュッテの下を過ぎ、道がやや左にカーブする正面の山腹途中まで刈り払われた跡があり、ここが神城スキー場の最上部。この丘陵の尾根を越えて白馬五竜スキー場とつながっていた時期もあるらしい。最上部はかなりの急傾斜に見える。おりしも真夏の晴天。上空にはパラグライダーが飛び交っている。
神城スキーヒュッテの南側にリフト乗場があり、そこからゲレンデ左側にリフトが設置されていたようだが、その痕跡は見出せなかった。かつてのゲレンデに隣接するロッヂの人の話では、白馬五竜スキー場ができる前には神城スキー場しか存在していなくて、バッジテストなどもおこなわれ賑わいを見せていたという。その後、大規模な開発を隣接する白馬五竜スキー場に譲るようなかたちになったようだ。かつてのゲレンデの一部や隣接する土地は、「五竜カタクリ苑」として整備されていて、5月にはカタクリの花を見に多くの人が訪れるとのこと。
私がはじめて五竜とおみ(現・白馬五竜)スキー場を訪れたのは1990年のことで、そのときは神城スキー場はもう存在しなかったのだけれど、白馬のスキーリゾートとしての創成期をささえ、都市圏からも多くのスキー客を招いたであろうこのゲレンデの役割は大きかったのだろう。いまはカタクリの花など、自然の姿をそのまま楽しめる場となっているようだ。(現地訪問:2009年8月)
(左)白馬五竜スキー場の南側、チャンピオンエキスパートコースの左手に広がる雪原部分に神城スキー場があった。(右)「冬の信州'81」を参考に作図。
五竜とはリフトの一日券が共有出来ず、別にこのゲレンデ用の回数券を買っていました。でも、その環境が功を奏していつも空いていたので、このゲレンデを使ってヒュッテのオーナーからスキーレッスンを受けてました。
おっしゃるとおり、上の方はかなりの急斜面で、ボーゲンがやっとこさの小生は、斜滑降の練習をここでずっとやってました。
そうですか、あのゲレンデは消滅しましたか。でも、ヒュッテはまだ健在のようですね。少し嬉しかったです。
私も70年代半ばに神城ヒュッテでアルバイトをしながらスキーの練習をさせていただいてました。
当時はまだ二十歳そこそこの若造で”ボンタ”と呼ばれていまして、ヒュッテにいらっしゃる先輩方々や経営者の小山章さんには人生の基本を教えていただきました。
そうですかまだがんばっていらしたのですね。
あれから30年も経ってしまいました。
年甲斐もなく、またスキーを始めたので、一度ご挨拶に行ってきます。
とおみの横の空白地はなんだろう、他のスキー場みたいに規模縮小で取り止めたエリアかな?
と話していたので、謎が解けました。
別のゲレンデだったんですね。
アルプス平の山頂辺りから繋がっていそうなイメージだったけど、チャンピオンコースと繋がっていたんですね。今度友達にも教えて話のネタにしたいと思います。
写真を撮ってもらったものが後々載っていまして、びっくりしたのを覚えているのですが、一昨年父が他界し、(86歳でした)荷物整理をしてしまったので今は幻のパンフレットになってしまいました。時代も人も変わってしまっても思い出は消えることがありません。あまりにも懐かしくて、長々書いてしまいましたが、70年代に小屋でアルバイトをされていた方には、私たち家族はもしかしたら会っていたかもしれない、、、なんて思いまして、徒然なるままにコメントさせて頂きました。スキーの時代が終わっても、忘れられない思い出がたくさんあります。
この神城は勿論のこと、他に白馬みねかた、三国、土樽など、学生時代に滑りまくったスキー場がどんどん閉鎖されてるのを知り、ただただ寂しい気持ちでいっぱいです。時代の流れだと言ってしまえばそれっきりなのでしょうが…。せめて日本の経済が再び立ち直りを見せ、以前のようにスキー場がもう一度、賑わいを取り戻すことを切に祈ってやみません。
貴重な調査本当にご苦労様です。
覚えてますか?小学校のとき山田姉妹と神城で遊んだ荒井康仁です。ウチの父が山田先生の同僚で毎年正月の神城でお会いするのが楽しみでした。高校生の時から居候させてもらって冬と春の休みはずっとヒュッテの屋根裏部屋で過ごしていました。父は10年前、母も4年前に亡くなり、拝島の実家も無くなってしまいました。現在私も都立高校で教員をしていて、25年前に、教員になった卒業生が集う大学の同窓会で山田先生にお会いし、すぐ私だと気付いて声をかけていただきとてもうれしかったことがつい昨日のようです。パンフの写真、ロープトウの前で微笑んでいた聡子ちゃん、よく覚えています。よろしければご連絡ください。
正式に再開とは言えませんが、白馬五竜スキー場から滑り込めるようになりました。
南向きで入り口部分は灌木が多く、最上級者しか滑り込めませんが、先日、規制ロープが外され、滑走可能になりました!
上にも有る様に47の真似をして神城ゲレンデをツリーランコースとして復活させたみたいですね。
そう言えば私が良く利用するスキースクールでは今年からバックカントリーツアー&レッスンコースを開講しました。
私は昭和30年代の半ばの4年間、毎年暮れと年明けの3か月数日間づつ小山さんにお世話になりました。
ランプの宿・持ち寄りの食べ物で作った闇鍋・夕暮れになると駅の近くまで買いに行った大判焼き・等々思い出が一杯です。
章さんに教えを請うたフランス式スキーは難しかったし、ヒュッテの隣が日本女子大山岳部の山小屋で朗らかな女子大生と交流したこと・これらもとてもなつかしい思い出です。
一昨年の夏、数十年振りに付近を訪ねてみましたが面影は全くありませんでした。