
(左)「寺社平」の説明板とキャンプ場の敷地となっているゲレンデ。(右)横山集落に掲出されていた観光案内図には「横山スキー場」の文字が表示されている。(案内図にあった個人宅名は白で消しました)。
伊那市の西方、横山集落から山に分け入った横山スキー場は、伊那谷におけるスキー場の草分けといわれている。長野市に住んでいると南信の伊那谷は暖かくてスキーとはあまり結びつかないイメージがあるが、積雪は戦前に1mを超すこともあり平均50~70cmはあったらしい。
横山集落から西にむけて未舗装の林道を2~3kmのぼると、キャンプ場に出る。昔は横山集落からは歩くほかなく、40分ほどかかったらしい。そういえばこのあたりは木曽駒ケ岳への登山口でもある。キャンプ場の一番下には「横山高原少年の家」などの建物がある。西に向かって広がるキャンプ場の草地が横山スキー場の跡地のようだ。伊那市教育委員会による「寺社平の歴史」という説明板があり、昭和7年から45年までスキー場であったことにも触れられている。適度な斜度をもった斜面は、快適な滑走をもたらしてくれたと思われる。中央アルプスを見上げ、白樺の木々ごしに眼下には伊那谷が見える。初秋の花がゲレンデを埋めていた。
「長野県スキー史」には「伊那電気鉄道(飯田線の前身)が昭和4年伊那町の西方、横山部落の中央アルプス山麓、標高1,100mから1,200mのところへ、同部落を援助して約5町歩のスキー場をつくった。これが昭和45年頃まで栄えた横山スキー場であり、伊那谷スキー発祥の地である」という記載がある。リフトはなかったようだ。
戦前は地元の子どもをまじえて、主として伊那電の宣伝による客が多く、初心者向けのゲレンデだったようだ。驚くべきことに50m級のジャンプ台をそなえていたという記録も見られる。郡内のみならず、下伊那・諏訪・木曽方面から来る者も多かったという。戦後になって再び、横山スキー場は賑わうようになったが、交通便利な他のスキー場に比べバス停から40分、自家用車も入らないことや雪不足もあって、45年頃から衰退の一歩をたどったという。スキー場廃止後はキャンプ場として整備され、おもに小学生の野外活動に利用されている。(現地訪問:2009年9月)
(左)ゲレンデ上部から見おろす。