「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」と川端康成が「雪国」で書いた、その信号所とは土樽駅にあたるのだろう。その土樽駅の駅前(駅裏?)にあったのが土樽スキー場。
(左)土樽駅前。上部後方に土樽山荘の建物が見える。(右)土樽駅下りホームからのゲレンデへの入口。以前は案内板があったらしい。中線2本を含め4本あった線路が2本になったため側線だった部分に新しいホームが設けられている。右手の斜面には以前、ロープトウがあったらしい。
「南魚沼郡誌 続編 上巻(1971年3月)」によれば、谷川岳の名ガイドでヒゲの大将と呼ばれた冒険家・高波吾策が、1941年(昭和16)に冬はスキー夏は谷川岳登山の基地として土樽山荘を建設したのがはじまり。上越線開通(1931年)直後からわずかながら日帰りスキー客があったが、山荘の建設により宿泊スキー客も加わって、昭和16年から18年頃までは連日500~800人の賑わいがあった。その後、中里スキー場の開発により日帰り客のほとんどはそちらに吸収されていったということだ。最後には西武グループの傘下となったが、一連の西武系のスキー場廃止の中で2005シーズンを最後に営業を中止した。
以前からスキー場ガイドには「ゲレンデに車の乗り入れは不可」とわざわざ記載があった。いくらでも駐車する方法などあるだろうにと思っていたのだが。すでにリフト施設などが撤去されたゲレンデ下に立つのが土樽山荘であり、その前に若干の駐車場があるが宿泊者向けなのだろう。その他に駐車できる場所は土樽駅前だが、駅の裏側にあるゲレンデまで一般道を歩くとかなり大回りしなければならない。
その場合、土樽駅の改札口を通り駅構内の誇線橋を渡り下りホームに出てからゲレンデにたどり着くというルートをとっていたようだ。以前はそのルートを示す掲示が駅構内にもあったらしいが、いまは撤去されている。昔のスキー場ガイドには「上越線土樽駅前にあり、鉄道利用者に便利」と書かれているが、しばらく前からこの区間を走る列車は日に5本となり、スキーに使うのには厳しいダイヤとなっていた。列車を使った方が下りホームからすぐにゲレンデに入れるのだが。
(左)土樽山荘の前から見上げたメインゲレンデ。
駅ホームからゲレンデに入った場所に、古くはロープトウ(100m)が設置されていたらしい。その上にシングルリフト1本(400m)があった。2000シーズンのスキー場ガイド(立風書房)には「初級・中級者向けコース2本。ファミリー向け、ナイターなし。スキースクールが充実していて、バラエティのあるカリキュラムでみっちり練習を」と書かれている。
土樽駅のすぐ下には関越道が走っている。関越トンネル開通当初、まだ対面通行だった頃、帰路に関越トンネル入口の大渋滞に苛立ちながら、いつ東京にたどり着くかもわからない車を運転していたのはこのあたりだったのだろう。(現地訪問:2009年11月)
ラベル:土樽
我が町の小出スキー場下にも、昭和の名残りのようなスキー山荘が数件残っていて、良い感じですよ。一度見に来て下さい。
土樽山荘では冬の準備をしている気配がありましたが、営業しているかはわかりませんでした。どなたかご存知したらお教えください。
小出スキー場には以前シーズンオフに立ち寄ったことがありますが、良い雰囲気だと思いました。でもまだ営業してますから、残念ながら(?)このブログではとりあげられませんね(笑)。
土樽の様子もたまに見ますがただ木が伐採されて斜面むき出しです。人の居る気配ではないなぁ。
よく今まで経営できたかが不思議なくらいです。やはり小さいスキー場の経営は厳しいです。ね・・・・。
懐かしい。でも無くなっているとは。寂しい。
その土樽スキー場は大手の西武の傘下ではありましたが、なぜ?あんなスキー場を西武が買収していたの??と思うでしょう。
それは、新潟の湯沢のスキー場が乱立している中の元祖のスキー場だからだということと、
それに、買収時はあの土樽スキー場とどこか(苗場と田代スキー場をゴンドラで接続したみたいに)をくっつけよう、もしくは(関越土樽PAから直接ゲレンデへ)のように拡大しようとしていたみたいです。
実際に元はシングルリフト1基だったのをペアリフトに架け替えましたし、もう1基増設する計画もありました。
しかし、スキーブームが終わり、その計画も頓挫しましたが…
また上記の方の仰ってるように吾策さんの息子の高波菊男さんがスクールの校長でした。
高波家の由緒正しきスキー場であるためか、集客数が少なく、交通の便も悪く経営的にもどうか?と思える立地ではありましたが、歴史的にも存続させたい一心でスキー学校みんなで守っていた感じでありました。
冬場の毎朝の圧雪車も夏の下草刈りもスクールスタッフでやるという、西武に閉鎖させないようにしようとする大手傘下とは思えないような個人経営的、手作り的なスキー場でした。
それでも小さいながらも土日でも混んでいない環境から、急行野沢さんが書いている通り、当時の浦佐ほどではないにしろ、湯沢の道場を目指していて、スキー学校はかなり充実させていてスタッフの数もリフト1基しかなスキー場にしては先生が20~30人も登録があり、そんなスキー学校目当ての上達思考のスキーの御客様のリピート来訪はそこそこありました。
それでも、やはり利益事業の法人的には苦しくオーナーである西武と協議して集客のためにリフト券大人1000円にしたり、それでもダメで土日だけの営業にしたり…で、リフトの運行も中里スキー場のリフト係さんを連れてきての運行だったりと最後の最後まで頑張りました。
ですが最終的には、当時全日本スキー連盟会長でもあった西武のドンの堤会長引退のために西武のスキー事業に関する経営方針転換、淘汰の対象になり他のいくつかのスキー場と共に閉鎖になりました。
今思うと非常にさびしいです。
上野駅から夜行列車に揺られ、ポケット瓶のウィスキーをチビチビやりながら車窓を眺め、いつの間にか眠りに…気がつくと豪雪の土樽駅に到着。
確かに宿泊施設も山の家しかなく、とても小さなスキー場でしたが、今でも頭に焼き付いているのは、ある冬に土樽駅に特急電車が臨時停車したことでした。「えっ?」と思わず目を疑いましたが、後で耳にした話では、「急病人が出たものの、診療所等がなく、急きょ直近の特急電車を停めて急病人を乗せ、隣の越後湯沢に搬送した…」とのことでした。なんとなくほぼのとした気持ちになりましたが、いずれにせよ、当時から何となく「この規模のスキー場でやっていけるのか?」という疑問はありましたが、実際になくなってみると、学生時代の想い出深く、とてもアットホームなスキー場だっただけに、とても淋しい気持ちでいっぱいです。
一番下の緩斜面にロープ塔があったと記憶しています。当時小学生の私にはそのロープが太く手のひらだけでは握ることができず脇に抱え込んで昇っていったところ、ロープが緩やかに捻られており着ていたセーターごと機械に巻き込まれそうになったことがありました。
先を行っていた父親がとっさに機械室に叫んで難なきを得ましたが、今でも鮮明に覚えております。
山小屋風の小屋にはストーブがガンガン燃えており壁にはあご髭をふさふさとたくわえたお爺さんが【スキーで逆立ち】している写真が飾られていました。子供心に【すっごい爺さんだな~!】と強く印象に残っております。
帰りには猛吹雪となり父に背負われて鉄路をホームへと渡った記憶があります。
以来50数余年スキーは毎年滑っておりますがここ【土樽】が【私のスキーの原点】です。
よくぞブログアップしていただきました、ありがとうございます!
それは、宿に着いて直ぐの事でした。
私が髭ボウボウのおやじに、「(スキーの)ナイター行きたいんですが、門限何時ですか?」と尋ねたところ、開口一番「お前、死にてぇのか。こんな時に行ったらラッセル車に掻かれちまうぞ!」と怒鳴られました。
ナイターを諦めふて腐れていた時、広間に飾られた写真や本を見て、ハッとしました。
おやじに、北極で撮ったと思われる写真を指して「これ、和泉雅子さんですよね。」と尋ねると、「そうだよ。一緒に行ったんだ。」と答えてくれました。またバイク乗りの風間深志さんの著書を指して、「ヤツも良く来るよ。」と言っていました。
それを聞いて「自然の厳しさを身をもって体験したから、言ってくれたんだ。」と分かりました。
あの時から現在まで、この日の出来事は忘れた事がありません。