
(左)大平宿。山間の宿場の風情を残す。(右)「大平峠県民の森」は湿地には木道が設置され、夏焼山などに登山道がのびている。その斜面がゲレンデだった。
このスキー場を語るには、まず大平宿から話を始めければならないだろう。飯田と木曽方面を結ぶ交通路といえば、現在では清内路を経由する国道256号ということになるが、かつては大平宿を経由し大平峠(木曽峠)を越える大平街道が主流だった。飯田市街から車で急カーブの連続する県道8号をたどって30分以上。ようやく、飯田峠を越えて大平峠の手前にある大平宿に到着できる。
街道に面して2階を張り出した「せがい造り」と呼ばれる建物が軒を連ね、山間の宿場の風情を残している。いまは廃村となっているが「大平宿をのこす会」がボランティア活動で、維持・管理にあたっている。この宿場から南木曽方面に向かって数キロ車で進み、大平峠の手前を右に入れば「大平峠県民の森」が整備されている。湿原には木道も設置され、さまざまな遊歩道がつくられ、夏焼山や兀岳の登山口にもなっている。
この北向き斜面が「大平スキー場」の跡地にあたる。管理棟の当番でやってきた小父さんに話を聞けば、リフトの残骸らしきものがあるという。管理棟の裏に案内されたが、舟形の底面に手摺が付いているからリフトやロープトウではなくトロイカではないかと思われた。斜面を見上げると滑走に適した中斜面のように見える。一部には潅木が茂り、スキー場としての面影は消え去ろうとしているようだ。
(左)ゲレンデ脇にあったリフト(?)の残骸。トロイカのように見えた。(右)「大平峠県民の森」にある地図には「旧スキー場」の文字があった。地図上方は南をさしている。
「長野県スキー史」には「伊那谷南部の中心地飯田から西方に約20km登ったところが大平高原。冬は北西の季節風があたり、雪は10月末頃から降り、最大積雪量は2mにもなるという。冬期3ヶ月ぐらいは車の交通の途絶したこともある」と記載がある。信州南端のこの地域でもこれほどの積雪があるということは、想像していなかった。
さらに「昭和6年、南信スキークラブ(飯田スキークラブの前身)と大平自動車(株)で、東川の水道取水地北側の斜面に画期的なスキー場を開発。しかし、戦雲をつげるとともに閉場となった。昭和27年初冬、兀岳1636mの麓に大平スキー場を開設。昭和31年2月にはスキー講習会が開催されるほどになった。ここも手ぜまになり、新しい場所をさがした。33年、木曽峠1358mの北側で奥石沢の広大な斜面を伊賀良財産区から借り受けた。ここにクラブ員の奉仕と行政側の努力により、大平奥石スキー場が生まれた」と記録されている。
最後の昭和33年開設の場所がこの県民の森と思われる。しかし最寄の峠の宿場・大平集落は過疎化が進み、1970年(昭和45)1月、27戸91人が集団離村。バス路線も廃止され、1972年(昭和47)冬より道路の除雪が中止されたため、スキー場も閉鎖となった。時代の変化の中で消えていった宿場と、運命をともにしたスキー場のようだ。(現地訪問:2010年6月)
ラベル:大平スキー場