2011年11月30日

燕温泉スキー場(その2)(新潟県妙高市)

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(左)温泉入口にあった案内板から。(右)道路左の一段高いところに第1リフトの乗場があったのだが。

このブログをはじめてごく初期に燕温泉スキー場を取り上げた。営業していた最後の頃は、赤倉をはじめとする周辺の大きなスキー場の影に隠れるような存在だったため、あまり反響があるとは思わなかった。しかしその後、このスキー場に寄せられたコメントの数に少々驚いている。

バブル期よりもはるか前、私と同年代の方々の少年時代・青春時代には、このスキー場のポジションが大きかったことを改めて思い知らされている。以前、訪れたときには残雪期であり、ゲレンデ上部の様子を知ることができなかった。いつかゲレンデ上部を見てみなければと思っていたが、紅葉の10月に訪れてみた。

燕温泉街の下にある駐車場に車をとめて歩きはじめる。タオルをもって露天風呂に向かう人の姿も多い。妙高から下山してきた登山者の姿も見られる。何より驚いたのは、リフトがすっかり撤去されていたこと。駐車場から温泉街に向かう道の左手すぐ上に、第1リフトの乗場があったのだが、すっかり撤去されている。施設があった平地と、林の中に一直線に切り開かれた跡が、過去にそこにリフトがあったことを示しているだけだった。

温泉街をぬけ、左手の露天風呂「黄金の湯」の方へ登っていく。黄金の湯の前あたりが、初級向け薬師ゲレンデがあったところ。さらに舗装された林道を登り、第1リフトの終点、第2リフトの乗場があったところを過ぎ、第2リフト終点付近まで登ってみる。第2リフトの痕跡もまったくわからなくなっている。ところどころに重機が置かれ、土嚢が積まれている。土砂崩れや雪崩を防止する工事が行われている様子だ。

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(左)黄金の湯の周辺の薬師ゲレンデ下部。(右)紅葉の木々に囲まれた坊主落としゲレンデ。

第1リフト終点あたりから見上げると、色づいた木々に囲まれた坊主落としゲレンデの様子ははっきりと読み取れたが、その他は深い草木に覆われて、コースの様子ははっきりとはわからなくなっている。あまり整地などせず、自然の地形のままのゲレンデであったことがしのばれた。周囲の山々は赤や黄に染まり、冬が間近に迫っていることを告げているようだった。(現地訪問:2011年10月)

→こちらもご覧ください「燕温泉スキー場(2009年5月2日)」
ラベル:燕温泉
この記事へのコメント
リフトが外されてしまった第一リフト乗り場と坊主落とし。感慨深いですね。
去年 針村屋のご主人に高校時代のスキー部のOB会に上京していただき、お話を伺う事ができました。『今後は秘湯の集落として宿を続けていくから遊びにおいで』と言っていただきました。いつかきっと行きたい温泉の一つです。
Posted by swallow28 at 2011年11月30日 21:04
初めまして。
懐かしさのあまり、コメントをかきます。
ここ…、自分が高校生の時行きました~。
春の(GW)記録会、
正月のイン杯予選。
朝はハイランド前で体操し、坊主落としでツボ足~。
定宿は笹屋(岩戸屋にあこがれ…)でして、
ダイニチ屋にて買い食い。
いい温泉でした。
閉鎖、残念です…。
Posted by まっちゃん♪ at 2012年01月24日 17:30
今から30年位前に赤倉に泊まり、父に強引に燕まで連れていかれました。途中からスキーを担いだり、滑ったり、雪上車に抜かれたり、やっと着いた燕はガラガラでしたが良質の雪で、上手な人ばかりでしたね。廃止(休業)とのこと・・残念でなりません、自分の子供と滑ってみたかったですねえ・・。
Posted by ロセゴール at 2013年02月24日 22:27
初めて燕でスキーをしたのは昭和56年の正月でした。豪雪の年で電車も止まってしまい、学校の始業式を欠席した記憶があります。積雪は5メートル以上ありました。その後、大学生の時に笹屋さんで居候(バイトではなく)させてもらいました。当時はそういう居候がたくさんいましたね。旅館の仕事を手伝って、空き時間にはスキーをする。いい時代でしたね。雪の量は相当な物でしたね。屋根の雪下ろしも仕事のひとつですのでよくやりましたが、2メートルもの雪が屋根の上に積もっている年もありました。大日屋さんから家がきしむから助けて欲しいと言われて、夜に雪下ろしをした事もあります。「おてんま」と呼んでいた共同作業(断水した、元湯のパイプが云々など)には各旅館から1名は出ないといけないのですが、笹屋さんからは私が出たものでした。そういう機会に他の宿の旦那衆に顔を覚えてもらい、ゲレンデで会った時にはちょっとスキーを教えて下さるのです。花分の若旦那(当時の)や針村屋の旦那さんには良くして頂きました。宿が暇な時には、全員で赤倉に滑りに行くのですが、帰りの方法がすごいですよ。滑って帰るんです。リフトの名前は忘れてしまいましたが、赤倉の一番上のリフトを降りて、コースを外れると下に坊主落としが見えてくるので、雪崩止めに落ちないように、雪崩を起こさないように滑って降りたものでした。長々と失礼しました。懐かしいです、ありがとうございます。
Posted by つばめのもと居候 at 2013年03月30日 18:57
東京都のインターハイ・関東大会の予選会会場でした。燕温泉に1/3日~5日位まで数百名の選手・関係者が集まり賑わいを見せていたのが懐かしく思われます。
Posted by 日本大学櫻ケ丘スキー部OB at 2015年03月28日 17:24
2015年3月 燕温泉に行ってきました~
相変わらずの 豪雪地帯。
30年ぶりに 温泉に入ってきました。
Posted by swallow28 at 2015年11月26日 18:37
笹屋さんに大学入学の昭和55年から毎年居候させてもらいました。メンズルームと呼んでいた地下にある布団部屋みたいなとこが居候の寝床でした。大変な雪かきや赤倉からの帰りの通称居候落としと呼ばれていたとんでもない山中の滑降や大晦日のたいまつ滑降など思い出が一杯です。結局大学卒業後は一度も行かないままスキー場が閉鎖されてしまいました。まさに追憶のスキー場です。一緒に麻雀をしていた面白い番頭さんや居候仲間は元気にしてるのかな。
Posted by 笹屋の居候 at 2017年06月19日 00:13
昭和40年代から60年くらいまで毎年、お正月は笹屋さんでした。大阪から一族20-30名で利用していたのを懐かしく思い出しました。能登やの安倍川餅が、スキー後、最高の贅沢でした。
Posted by 大阪から at 2019年12月20日 13:02
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