(左)国道17号から見たゲレンデ。(右)バス停名や案内板にも浦佐スキー場の名が残る。
今シーズンから営業休止となったスキー場の中で、最も衝撃的だったのは浦佐スキー場ではないだろうか。「スキー道場」といえば、すなわち浦佐のことを指していた。「上手くなりたかったら、浦佐へ行け」といわれ、スクールの講習には定評があった。その浦佐が営業をやめるとは、ひとつの時代が終わったとさえ感じられる。
2011年6月の新聞報道によれば「浦佐スキー場、来季の営業休止。南魚沼市浦佐の浦佐スキー場が来季の営業を休止することが13日、分かった。利用客が減少し設備投資や運転資金の確保が難しいと判断した。同スキー場は、地元の住民らが出資し合い1958年にオープン。60年にスキー学校を開校し、優れた指導者による普及活動や技術指導に定評があった」と報じられた。昨夏の土砂崩れでスキーセンターが崩壊し、その影響もあるのだろう。半世紀以上におよぶ歴史にピリオドが打たれることとなった。
「オールスキー場完全ガイド2000(立風書房)」には「ゲレンデはコンパクトだが、上越屈指の有名スキー場。というのも昔からSAJ系スクールの最高レベルとして知られてきたからだ。ゲレンデもスクールの講習用に手をくわえてあり、わざとリフトを架けない斜面を持ち、うまくなりに行くには最適。ゲレンデのすぐ下が旅館街で、そのはずれは駅というロケーションの便利さもある」と記載されている。
(左)パラで架かるリフト乗場。(右)リフト乗場とリフトセンター、レストハウス。
ゲレンデ中央にペア2基・シングル1基がパラに架かり、まっすぐ下る上級・中級の各コースやS字を描くような初級コースが配置されていた。国道17号がゲレンデ間近を走り新幹線浦佐駅も至近距離と交通アクセスは悪くなかったが、東京方面からは手前に湯沢・石打・六日町周辺に多くのスキー場があるから、ここまで来る必要性を感じる人は少なかったのかも知れない。
湯沢・石打周辺のスキー場も営業を開始したクリスマスの3連休、浦佐スキー場を訪問してみる。国道17号沿いには「浦佐スキー場前」というバス停名もそのまま残っているし、案内看板もそのまま残っている。スキー場下の旅館・民宿は温泉地でもあるのでほとんどが営業を続けている様子だが、外部から見た限りではスキー客の姿はなく閑散としてはいる。
パラで架かるリフト乗場は雪に埋もれ、ワイヤーはそのまま上部に通じている。見上げるゲレンデはただ雪が積もり、迂回コースの跡は認められるものの、圧雪もされていないのがむなしさを感じさせる。魚沼の平地をはさんで、越後三山が白銀に輝いていた。(現地訪問:2011年12月)
(左)ゲレンデ全体を見上げる。
ラベル:浦佐スキー場
浦佐に宿泊しながら、通いで他のスキー場にお正月行ってました。
スキー場閉鎖にあたり、宿は二軒閉鎖しましたが、やはり愛着があるのか
宿の中はスキー客で賑わってました。。。
夏の土砂崩れでスキーセンターが崩壊し、雪も圧雪されていないので
春の雪崩が懸念されています。。。
駅チカで便利だったのに、残念です。
80年代後半から90年代前半、毎年複数回「特講」に参加していました。
バッチテストを取ったのもココでした。
スキー場閉鎖より随分前に営業を終わってしまった「白銀館」が定宿で、コシヒカリの夕飯をお腹一杯食べた後は、宿の玄関でホットワックスが日課?でした。
残念ですね。スキーブームが去っても、ここは残っているような気がしていたのですが・・・
リフトはこの夏前に重機が切断・撤去してしまい、本当に浦佐は終わった…と思い知らされます。山頂や中腹のハウスは残ってますが、豪雪で崩壊寸前です。
当地で生まれ育ち,週末は朝から1日中スキー場で過ごしていました。いつものゲレンデは五日町でしたが,平日のナイターは浦佐でした。当時,親から見ればスキー場は保育所,子供から見ればスキー場は公園のような感覚でした。小中学校の頃は,冬の6時を過ぎでも,ナイターの光で帰り道が明るく照らされていて…。そんな時代が,懐かしい今日この頃です。
昔話をしてしまい,すいません。
さて,浦佐スキー場ですが,小さい頃は正面の急斜面のコブが硬いしデカイし滑るのに苦労していたことが思い出されます。五日町はコブがなかった(当時)ので,仲間とモーグルの真似ごとしながら楽しかったです。丁度いいコース長なのもよかったのですね。
そして,スキースクールは有名でした。五日町の指導員(結構厳しい,というより指導と採点の信頼が高い)も「浦佐の1級は,他のテクニカル」「あそこのバッジは本物」と言うくらい,信頼が高かった様です。
閉鎖については諸説ありますが,経営が厳しい状態は何年も続いていた様です。そこに,何かのきっかけがあると,「閉鎖」という選択になるでしょうか…。きっかけがないと引くに引けない事情もあるのかもしれませんね。
浦佐国際に続き浦佐も…,これで旧大和町のスキーは八海山麓だけになってしまいました。滑ったことのあるスキー場が次々と閉鎖になる度に,知り合いが亡くなってしまった様な悲しさが湧き上がります。
指定管理者を引き受けてくれる民間企業が
残念ながら現れなかったようです
隣接する温泉施設の存続も心配です
新潟日報の記事で掲載されているので間違いありません!!
私の青春でした。半世紀前の話です。
同じ思いの方がいるかも、、、、。
スキー場が閉鎖されたことを知ったのは、ずい分あとだったけど、今年のように雪の深い年は浦佐の第三ゲレンデは雪で埋まってないかなぁ、なんて心配してしまうわけで、、、、
今さらですが、さみしいです。
子育てが一段落したら滑りたいスキー場のひとつでした。
スキー場閉鎖はずい分あとで流れてきた話で知りました。今年のように雪の深い冬は第三ゲレンデのリフトが埋まれてしまってたいへんだろうなぁなんて、、、子育てが一段落したら行きたいスキー場でした。さみしいです。
皆さんが書いているとおりに、私もこちらの特別講習会に通い、1級をとれたことがうれしかった思い出があります。もう、30年以上前の話です。
うしき屋さんにいつもお世話になり、夜の飲み会などが楽しかったです。
ストリートビューでは、うしき屋さんがまだあり、懐かしくなりました。
スキーで訪れることは無いと思いますが、湯沢にはたまに行くので、いつか訪れたいと思っています。
記録を残して頂いて、ありがとうございました。
40年近く前、スキーがうまくなりたいと3~4年通いました。
特講の班分けで、ゲレンデ正面のウェーデルンコースを滑らされたのを鮮明に覚えています。
また、3月中旬の講習のときには、雪がなくて「関 健太郎」デモの運転するマイクロバスで、奥只見丸山スキー場までいったこともありました。
上越は雪が重いので、白馬や志賀方面に行くことが多かったのですが、浦佐は別でした。
昭和61年2月2日 この日浦佐の1級を取得したことは私にとってこの上ない快挙だった。30年近く経った今でもこのことは鮮明に覚えている。
この時期、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)スキー番組「スキーNOW」の佐藤正人デモの、どのような斜面でも微動だにしない完全無欠の滑りに圧倒され、また憧れ、それを常にイメージしてゲレンデに通い、オフは自宅の窓にストックを持ちスキーを履いた自分を映し、スキー誌に載ったデモンストレーターの滑りの連続写真をまねることが、私なりのスキー上達方法で、それまではスキー学校には一度も入校したこともなく、1級挑戦の前日、事前講習で初めてスキーを人から教えられた。
(今思えば完全に我流だったが、この講習で特に欠点を指摘されなかったことや、その後の合格につながったことが、私自身唯一の密かなこころの自慢でもある。)
スキー番組「スキーNOW」やスキー誌で、浦佐スキー場の1級は特別であることを知り、
前年の2級を取得したあたりから、合否は別として今後の技術向上や、1級スキーヤーも憧れる浦佐の1級がどのようなものだろうという純粋な興味や、話のタネとして浦佐で1級をとにかく受けてみたいとの思いが強くなり、挑戦することと相成った。
宇都宮から新幹線を乗り継いで、浦佐駅に着いたら駅出口に田中角栄氏の銅像があり、また、宿に着いたら宿の人や、客(?)が「越の寒梅」を飲んでいたことが新潟到着の思いを強く刻むこととなった。宿に着いたときはまだスキー場はナイター営業しており、荷物整理したあとゲレンデを見たら仰天するまでに3分とかからなかった。滑っているスキーヤーの半分くらい?7割くらい?私より上手いという実感。今考えるとテレビ・雑誌で称賛されていた浦佐という憧れのスキー場というネームバリュウがそう思わせたのかもしれないが、多少腕には自信があった私はものすごいショックだったのを覚えている。正にこれがこの名高い浦佐か-。てな感じで。
検定前日の事前講習を受け、もしかしたら合格するかもしれないと僅かながらの思いをもって就寝したこの夜、生涯初の金縛りになったことは相当精神的に追い詰められた証でもあった。口では話のタネや経験のためと言いつつも、心の中では浦佐の1級を取りたいと思う気持ちが相当強く思っていたのだ。いま思うと自分で選んだどうでもよい趣味のプレッシャーだが、受かるかもしれないと思えば思うほどそのプレッシャーでつぶれそうになり、当日ビビり過ぎた私は本気で検定当日帰ろうと思ったが、すでに受験料は払っており、もったいないという貧乏症の心のほうが勝り、検定を受けようと思いとどまったことを覚えている。それにしても、金縛りは心と身体が分離した奇妙な経験は貴重な体験だった。余談だがその数年後、生涯2度目の金縛りを経験したが、その時は仕事でものすごいプレッシャーのかかった時期だったことを覚えている。
検定当日は、ガリガリ斜面に新雪が20cmぐらい積もったコンディションで、検定前半の種目の順は忘れたが、前半の滑りは大きなミスもなく淡々と検定種目をこなし、後半の種目に臨んだ。「総合滑降」斜面の滑り出しの傾斜は40°近くで、滑走者が2mぐらい滑ったら次滑走者の視界から消えるような斜面であった。そのような斜面で、私の2~3番早い滑走者が転倒したという無線が検定員よりスターターに入り、次に滑る人は転倒者を避けて滑るようにと指示の連絡が入ったことが聞こえ、正直うろたえた。
何しろ、転倒者がどこにいるのか、いないのか、どのような状態なのか見えないため見当が全くたたない状況だった。しかし、そうこうしているうちに順番はすぐに回ってきて、転倒した前走者が斜面からいないことを願いつつ運を天に任せ、いざスタート。(結果、斜面には転倒者はいなかった。)
事前にたてた作戦は、滑り出しの急斜面は検定員からよく見えるので、スピードを最大限に出すためエッヂをたてずワンターンのみで滑り、つづく20°台の緩斜面では検定員から見えづらく、早くその斜面を滑りぬくことを念頭にそのスピードを保持・増長させるためステップを踏む。つづく30°台の斜面では大きくターンしても決してエッヂは立てない。雪飛沫は絶対にたてない。そして最後の緩斜面ではすべてステップを踏み、最後までスピードを保持して滑っている印象を与え、最後の静止では最大限の雪飛沫を出すという。上手く滑ることより、速く滑っていることを印象づけることを考えていた。結果は思っている以上上手くいき、会心の出来だった。また、今まで経験したことがないとんでもないスピードが出たことにより、滑走後食いしばった口元から大量のつばが出、人様には見せることが出来ない恥ずかしい顔面だったことだろう。
つづく最後の種目は「ゲレシュプ」、この種目普段ゲレンデでは練習をしたことがなく、前日講習で初めて行った種目だったが、最初は恐る恐るジャンプしていた。しかし、慣れるに従ってだんだん大胆になり、他の人より1.5~2.0m助走を多くとるようになり、それでもしっかり飛べて講師より「うまい71点」などと言われ、しっかり気を良くし自信をつけ検定に臨んだ経緯があった。
自信満々で臨むこととなったこの種目、本番では昨日と同じように他の人より2.0mぐらい助走を長くとり、いざ突入という気分でスタート、踏切・飛ぶタイミングは申し分なし、高さも今までとは比較にならないほど高く飛べ、あとは着地、心の中ではヨッシャ!ヤッター!のはずであったが、現実は着地と同時に背中が斜面に叩き付けられ、帽子とゴーグルが斜面に散乱するほど前代未聞の大失敗、格好悪いを通り越し自信があった分今まで経験したことのない最大限のみじめさを味わう羽目となった。ガックリ・愕然 今まで実力以上の滑りができ、合格の手ごたえを感じていたのでそのショックは計り知れない。残念、これまでか。
後で、この失敗ジャンプを自分なりに分析してみたら、膝を抱え込んだ込んだまま着地してしまい、着地の反動を膝で全く吸収しなかったことがこのような結果につながったと思ったが、「前(さき)の前夜祭、後の祭り」。SAJ監修のバッチテスト本には着地のノウハウまでは記述されていなかったとか勝手に負け惜しんだり、付け焼刃状態で臨んで勝手に自信をつけたしっぺ返しかと反省したり、いろいろな思いが交錯したまま結果発表を待った。
前日講習で同じ班の仲間が、あれだけ高く飛び距離も出し、空中の姿勢も安定したのでそれほど悪い点数は出ないのでは、過去に「ゲレシュプ」で転倒した人が合格したこと覚えているヨ。それに〇〇番さんは(お互い名前がわからないから受験背番号で呼び合っていた)他の種目が高いレベルなので合格するのではないのかなと浦佐検定常連のスキーヤーから慰められ、やや気持ちを持ち直ししていたがやはり心は大ドン凹。
結果発表の冒頭で今日100人余りの人が受験したが、いつもだと多くて4~5人程度の合格者しかでないが、今日受験者した人の技術レベルが非常に高く10余りの合格者がでたという言葉で、「もしかしたら」という思いが横切ったが、その後点数の高い順から合格者が読み上げられ、10人前後合格発表者が読み上げられた時点であきらめの境地に入ったその時、まさかの番号が最後に読み上げられ大どんでん返し、しばし呆然、我に返りこんなことが現実にあるんだ。あの憧れの浦佐の1級が取れたんだ。訳わからない、なんという幸運。この一年余りの思いが叶った喜びがジワリジワリ湧きあがり、心の中はニンマリ。
「ほらなー」と受かるかもしれないと励ましてくれた仲間が祝福してくれた。
その後、各受験者の点数表が貼り付けられ、自身の点数を見たら、今でもはっきり覚えているが、「ゲレシュプ」は68点・68点・69点の評価。総合滑降とウェーデルンが高得点を獲得して減点分を相殺し、平均70点のギリギリセーフ。なんという強運。
余談だが、一緒に事前講習を受け共に挑戦した、将棋の芹沢9段に似た紳士風の人、私を受かるかもしれないと励ましてくれた輸入雑貨商を営むクナイスルのスキーヤー、夏休みを利用し来日してスキー学校に通い詰め、浦佐の1級を受けるまで上達した運動能力抜群のブラジルの高校生、みんなどうしているのかなー。正に一期一会。
合格の喜び、感激をかみしめつつ、帰りの新幹線の中でまたその喜びを確認するため合格証をバックから取り出しニンマリして見ていたところ、隣の席に座った人がその合格証を見て、「浦佐で1級とったんですか?」と言われ、うなずくと「凄い!」とほめてくれ、改めて浦佐の1級は凄いんだとかみしめるが出来た。
会社のスキー仲間に、浦佐で1級獲得したことを告げると羨望の眼差しや、称賛の嵐、まさにしてやったり、心の中は優越感の洪水。しかしゲレシュプで大胆この上ない転倒のことは言うまでもなく伏せていたけど。
その後、仲間とスキーをする機会は当然数限りなくあるが、浦佐の1級という看板を背負うことがある種「どうだ」という気持ちより、「あれで浦佐の1級?」というようなぶざまな滑りができないことを重荷に感じながら滑らなければならない窮屈さ背負う事になるとは予想だにしなかった。
その後、仕事の忙しさが尋常の枠を超え異次元となるや、スキーどころでなくなり、2シーズンほとんどできない時期などあり遠ざかっているうちに、ボーダーがゲレンデの主役となると、斜面にそれまで見たことがないV字型の溝が付くようになり、降雪時はそのV字面は見づらくなり思わぬ転倒を招いたり、ボーダーのターンのタイミングが予想できなないため衝突回避の自信がなくなり、整地では思い切ってスピードを出せる斜面がなくなり、またボーダーのためだろうが、よだれの出るような30°前後のこぶ斜面が常に整地されるようになり、2~3あったお気に入りのスキー場のこぶ斜面は全滅。スキーを楽しむことが出来なくなり、これで我スキー人生は一端幕を閉じ、現在に至っている。従ってその後現れたカービングスキーは履いたことがない。滑り慣れたダイナスター(現在はディナスターというらしいが)のGS203,SL195,デモ190、モーグル185、履きなれたラング・未使用新品ラング等は古い物置で眠ったままである。
基礎スキーを学生時代にやっていて、ここは難しくて、なおかつ厳しかった合宿を思い出します。 天気の良い日にリフトに乗りながら〝もう嫌だなぁ、帰ろうかな?〟といつも思ってました。
自分は、浦佐スキー学校に一度だけ入りました。女性の先生でしたが、「ウェーデルンは目つきがちがいますね」と褒められた?覚えがあります。
「女性でも」上手な人がいるんだなと驚いていましたら、後に雑誌でその名前が技術戦で5位だったと知って、「女性デモ」だったのではと感心した覚えがあります。名前は忘れましたが。
ロシアスキーさんのコメントにピン!ときました。松田久美子さんか桜井園子さんかなあ、と・・ご年齢から察すると松田さんですか。ね。
当方既にスキーをしない生活となり、実家で188cmのfujionのスキー板(山崎操デモ使用モデルでした!)が部屋の奥でオブジェと化しております。
20年以上前に遡ります、正月の2泊3日の特別講習を
知人から誘われ受講しました
関西から夜行を使い朝方に浦佐に到着、知人が前泊してる
宿に入り、着替えてセンターハウスに行くと
NHKのベストスキーの(佐藤正人、茂野裕子現役デモと
共に)講師をされてた平沢先生に遭遇
お早うございますと挨拶をしたら、笑顔でやぁと返答が
返って来て、浦佐には凄い人が居てる事を実感
これからどんな講習が始まるのか、下手な自分なんかが
ついて行けるのか、少し不安な気持ちになった記憶が
有りました
講習に集まったのは約40名、講師の中には現役の
豊野デモも居てピリピリした緊張感があり、講習前に
これから班分けをするので、各自の滑りを見たい
この斜面をフリーで滑って貰いたいとのコメント
いきなり襲って来るプレッシャー
うわっどうしよう、恐らく自分なんか一番下手で
実力以上の滑りは出来ないから、なる様になれと
半ば開き直って滑った結果、3班に行けと言われました
班は全部で6つ程、1班6名位での少数の講習でした
これが浦佐の講習の仕方なのか、他のスキー場の講習
とは違うのも実感した次第です
担当の講師も全日本技術戦に出場してる方で、理論的
にも滑りも見惚れながら受講していました
ポール講習も有ったのですが、下手な自分は転倒して
ポールを倒してしまい、後処理をしようとしたら
何と豊野デモがやって来て、直しますから滑り続けて
下さいと言われる始末、すいませんと言っても
心の中では、豊野デモに何をさせてるんだ、もっと
上手くならんかいと自問自答していました
他のスキー場の講習では味わえない充実感を感じた
3日間の講習でありました
あの講習で講師をされてた方々は今はどうされてる
のでしょうか、自分にとっては思い出に残る
浦佐スキー道場でした。
苗場が60周年と盛り上がっているのに比べ、道場の方はとっくに終わっていたんですね。
浦佐の一級が欲しくて、女子一人で車を運転して東京から通いました。
苗場と浦佐。
ミーハーとプロ志向の両極端なスキー場でしたが、どちらも大好きでした。
私の青春。
皆、どうしているんだろう。
ゲレンデは木を切ってしまっているので土砂崩れ、圧雪もしてないので雪崩の危険があり、ふもとの宿なんかは危なそう。これから植林してもスキー場開設以前に戻すのは困難そうです。
SAJも廃業するようなスキー場には洟もひっかけないんでしょう。全盛期に世話になってたのになとも思いますけど、そういう人たちの集まりなんでしょう。
無くなってしまったのは悲しいです。