(左)駿河台下交差点西側から小川町方向。(右)小川町から駿河台下方面。
かつて東京で過ごしていた頃の職場が小川町交差点の近くにあったため、淡路町から小川町、駿河台下、神保町あたりにかけては懐かしい場所である。
もともとスポーツ用品店が多かったからだと聞いたことがあるが、スキーブームはなやかなりし頃、この近辺にはスキー用品店が林立していた。いや、いまでも林立しているのだが、その数や華やかさはやはり少し衰えているように感じる。20年以上着続けたスキーウェアもこの界隈の店で購入したと記憶している。
スキー用品だけでなく、登山用品を調達するのにも便利だったし、書店も多くてスキーや登山関係の本や地図を入手することもできた。遠い山を夢想しながらこの界隈を歩くのには楽しいことだった。大学も界隈には多いので、学生相手の割と安い食堂も多かった。
その頃の漫画で見たと記憶しているが、こんな笑い話があった。スキー用品店が多いので「この近くにスキー場でもあるのか?」と尋ねた外国人がいたが「一番近いスキー場でも、ここから200km離れている」と聞いて驚いたという話だ。
東京に出張した日の夕刻、久しぶりに神田駿河台下から小川町のあたりを歩いた。こんな真夏でも店頭にスキー・スノボが並んでいるのを見ると、やはり嬉しくなってしまう。(現地訪問:2015年7月)
真夏でもスキーやスノボが店頭に並ぶ。
私も高校大学時代 三省堂の前のブーツ屋さんでバイトしてました。スノボがはやる前。スキーと楽器やさんで賑やかな町でした。昼飯は いもやの とんかつか天丼が楽しみで。人生劇場(パチンコ)でよくさぼってました!
インストラクターは八方のメインスキー学校の校長さんだったとこれも記憶します。この方はビクトリアアメリカスキー場の村長さんもしていましたか。バブル後の経営主体は変わりましたが時代も遥かに流れました。スキー界の現状を先取りしていたような初代ビクトリアでした。スキー場は最盛期の1/3以下に激減しましたか、スキー人口はそれ以上の減少でしょうかか、雪山はそれでも私達を迎えてくれます。私達に出来る事は何でしょうか。
仕事で東京へ行ったとき無理やり時間を作ってブラブラしましたね。
今や明治大学のキャンパスができていたりして、昔とは様変わりです。
ビクトリア名古屋店でもカーペットが上に上がっていくような人工ゲレンデがありました。
今ではビクトリアもゼビオ傘下になって名古屋店も売却され、貸し倉庫業態の店舗になっています。
名古屋からその昔ザウスに行った帰りに
よりました。
多くの店があって目がキラキラした思い出があります。
今はどんな状態なのかなと気にはなってました。
スキー人口が減って名古屋の中小のショップもほとんどがなくなりました。
それでも少数ではありますが頑張っているスキー専門店はありますが。
昼休みに古本屋や、スポーツ用品店に行ったり、時には、会社が早く終って、残業の無い日には、秋葉原まで歩いて、部品を買いに行ったりしていました。
今は定年して時間的に余裕がありますが、あの頃は、とても忙しい毎日でした。その忙しさから、体調を崩し、結局、医者の勧めで、田舎へ戻らざるを得なくなってしまいました。
でも、田舎に帰ったら、自分でも不思議なほど元気になり、品川に本社を持つ企業に再就職をし、東京との往復は続きました。田舎では、仕事の後、1時間ちょっとで行けてしまう、揖斐高原や春日長者平へスキーに行ったりもしていました。
もう、仕事もスキーもしなくなり、昔を振り返ろうかと思い、働いていた小川町や、住んでいた、三鷹や調布へ行ってみようかと思っているところです。
覚えていますよ!「さわるのきらい」と書かれた四角い箱に入っていて、サンコージツや石井スポーツによった後、いつもちょっかい出していましたよ。でも、全く動じないので、実は触るの好きなんじゃん?!と思っていました。雑誌か何かで、青年がこの犬に覆いかぶさるようにしていて、「さわるの大好き!」という題名が付けられたモノクロ写真を観た記憶があります。もう40年近く前の話です。