(左)浦の集落。(右)小松氏先祖の墓(伊那市文化財)。
この浦の小松氏が平家の流れを汲んでいるとされ、小松家とその側近であった西村家では春彼岸中日に先祖祭をおこなっている。赤旗を竹竿につけて墓の生垣に立てる。その後、「小松内大臣平重盛卿」の文字が書かれた掛軸を床の間に掲げて、盛大な祝宴をあげるのだという。正確な歴史検証は今後に俟つ部分が大きいといわれているが、そんな話を聞くだけでもこの土地の歴史に思いを馳せてしまう。
この土地にスキー場があったことを知ったのは「長野県上伊那誌・現代社会篇(1967年1月)」の記載によるもの。同誌では「浦の原スキー場」について以下のように紹介されている。「伊那市から浦までバスの便がある。標高1,300m余り、三峰川の溪谷に面したスロープで、冬季は平均40~50cmの積雪があり、初心者のスキーに適している。また、夏はキャンプ地としても好適である。」
また、昭和30年代後半から40年頃の地元紙には、この浦のスキー場についての記事を見ることができる。「例年ならば里に雪はなくても山岳地帯の浦スキー場は雪のない年がなかったが、この冬に限って淋しい冬(雪不足)だと関係者はこぼしている。(昭和40年1月)」「今秋拡張工事の完成をみた長谷村浦の原スキー場はさきの降雪で二十センチの積雪がありホツホツスキーを.楽しむ客が訪れている。(中略)あまり知られていないので、長谷村観光協会ではパンフレットを作成、新年早々には完成するので各方面へ配布する(昭和35年1月)」
(左)浦の集落から西側の山並みを見る。前方の山並みの奥にゲレンデがあったというが。(右)浦の集落から見た仙丈ケ岳。
南信方面の山に登った帰りに、浦を訪れる。山中の道を車でたどり、「なんでこんなところに」と思える浦の集落にたどりつく。廃屋もあるのだろうが、しかし、思ったよりも多くの家が建ち並んでいる。集落の中で見かけた年配の方、数人にスキー場について尋ねてみる。ゲレンデは集落近くにあったと思っていたが、かなり西側の山中に入ったところだったようだ。「中沢へと越えていく途中の北斜面。窪地のようになっていて、そこは積雪が多かった。美和湖の方角も見渡すことができた」という。
浦の西側山中に上っていく林道あたりかと思ったが、そうでもないらしい。古老の話では「歩いて登っていくしかない。きちんと支度をして」とのことだった。そんな話から地図上で推測すると、入野谷山から北北東にのびる尾根がやや広くなったあたりかと思えるのだが、それでは西側の分杭峠あたりから入った方が早そうだし、スキー以前に最低でも標高差300~400mの登山の様相を呈してくる。いずれにしても、この日はゲレンデの場所は特定できなかった。再訪の機会にあらためて調べたいと思う。振り返ると、谷を挟んで仙丈ケ岳が午後の光を受けて輝いていた。(現地訪問:2015年10月)