長野鉄道管理局「スキースケート(1973年版)」より
その後、いろいろな資料を調べるうちにこのスキー場について明らかになってきた。国鉄・長野鉄道管理局作成の「スキースケート(1973年版)」には、志賀高原丸池スキー場・法坂スキー場の中に「ゴルフ場リフト」が掲載されていて、長さ266m、使用料1回60円となっている。同誌掲載の志賀高原概念図にも、「蓮池」「川原小屋」の脇にそのリフトがあって、だいたいの位置を知ることができた。
また、「志賀高原スキー史(1991年)」では「主なスキーリフト架設年表」の中にこのリフトが掲載されていて、「昭和35(1960)年4月架設、長さ244m、架設者名:志賀高原ホテル、昭和48(1973年)年4月廃止」となっている。10数年の寿命だったようだ。
(左)各種資料から推測したゴルフ場リフトのあった場所。(右)志賀高原歴史博物館(旧・志賀高原ホテル)。冬季は休業。
もう少し正確な位置を知りたいと思っていたところ、たまたま目にした1977年版の空撮写真では、現在の総合会館の駐車場あたりは樹木のない草地の緩斜面になっていて、やはりその一帯がゲレンデだったと推測できた。さらに、「ブルーガイドブックス 志賀高原・草津・奥信濃(1983年、実業之日本社)」の巻末地図にはこのリフトが掲載されていた。
それらによれば、ゲレンデトップは現在の総合会館の北西にある丘のような小ピーク。また、ゲレンデ最下部は歴史博物館の右手裏(南東)あたりと推測される。リフトの長さもほぼ当てはまるようだ。
(左)総合会館の駐車場から見上げる北側の丘。あのあたりがゲレンデトップではなかったか。(右)丘の上にはコンクリート製のベンチがあるが、リフトの痕跡はわからなかった。
そんな事前調査をしてから初冬の志賀高原を訪れる。積雪はまだ十分とはいえないけれど、丸池ゲレンデあたりは多くの人が滑っていた。まずは総合会館の駐車場へ。おそらくは総合会館の駐車場を造るときに斜面が整地されたため、北側の小ピークとの間にも西側の歴史博物館との間にも現在は大きな段差ができているが、当時は緩やかな斜面となっていたのではないだろうか。
総合会館98の右手からゲレンデトップの小ピークまで登ってみる。ピークにはコンクリート製のベンチが設置されていたが、リフトの痕跡などは見つけることができなかった。眼下には総合会館の駐車場が広がっていて、当時の雰囲気をうかがい知ることは難しい。緩やかな斜面が歴史博物館の裏手まで続いていたはずだと思うのだが。また、歴史博物館の周辺は雪に埋もれていて、リフトの痕跡などを見つけることはできなかった。「ゴルフ場リフト」ということなので、夏季にはゴルフ場になっていたのだろうが、そのあたりのこともよくわからなかった。
(左)丘の上から木枝越しに総合会館の駐車場を見おろす。(右)歴史記念館の右手奥。このあたりにリフト乗場があったと思われる。
志賀高原の玄関口ともいえる場所にあった小さなゲレンデだったようだが、あまり魅力的ではなかったのだろうか。ゲレンデの雰囲気はいまとなっては想像しがたい。年末年始に向けて志賀高原全体は賑わいを見せるのだろうけれども、廃止となってしまったロープウェイ乗場周辺や総合会館周辺には人の姿は少なく、何となく寂しさを感じた。(現地訪問:2016年12月)
ゲレンデやリフトはその通りです。
ゴルフ場と言うより打ちっぱなしのイメージです。
志賀高原ホテルに宿泊されたお客様がホテル裏で雪で戯れる感じのスキー場でした。
現在のように早く上達して長い距離を滑る時代ではありませんでした。
志賀ハイランドホテルさんも開業時はゲレンデサイドでした。
旧志賀高原ホテルの時代に、きれいにゴルフ場のネットやリフト跡は撤去されていました。
よろしくお願い致します。
山頂駅には以前信州そば屋があり、ゴンドラを下りると醤油の臭いにそそられて、つい1杯…ということがありましたが、それも無くなってしまい寂しい限りです。