長野県民が「雪の多い町」といって思い起こすのは、まずは飯山ではなかろうか。豪雪地なので古くからさまざまなスキー場が存在していた。それらについて詳しく記しているのが「飯山スキー100年史(飯山市、2012年)」である。スキーの歴史を記した本には、意外とスキー場についての記載が少ないのだが、この本では充実している。
すでに本ブログで取り上げたスキー場や、現在も営業を続けているスキー場ももちろん掲載されているのだが、興味深いのは黎明期のスキー場である。まだ、スキーが伝わって間もない頃は飯山市内にあるちょっとした丘陵の斜面がスキー滑走の場となっていたようだ。ただ、これらも昭和30年代にリフトが整備された近代的なスキー場が開発されると姿を消していったという。この本を参考にしながら、そのスロープが現在どうなっているのか、場所がある程度特定できる範囲で見ていきたいと思う。
■片山スキー場
(左)片山稲荷。右は「飯山市文化交流館なちゅら」。(右)高台から片山丘陵の北西斜面を見おろす。
同誌によれば「明治45年1月24日、高田師団スキー行軍隊がスキーの実演を行い、飯山の人たちが初めてスキー滑走を目撃した記念すべき日となった」とある。また、初の全信州スキー大会が大正13年に当地で開かれたという。現在の飯山駅北側、『飯山市文化交流館なちゅら』の西側に片山稲荷神社のある小丘陵がある。その場所は、この小丘陵の北西斜面だったということだ。
丘陵の北西側にまわってみると『市立飯山図書館』『手すき和紙体験工房』などの建物が立ち並び、その向こうに斜面が見える。現在のスキー場の規模から考えると、距離はわずかななものに見えたが、スキーをするのには適度な斜度と思えた。
■城山スキー場
(左)西側斜面の道脇に「長野県スキー発祥の地」の看板がある。(右)本丸跡から西側への斜面。
「明治45年1月23日に市川達譲(妙専寺住職、飯山中学校教諭嘱託、レルヒ少佐のスキー講習会に参加)が『城山に登り、飯山中学校側の斜面を下って学校に出勤した』と手記に書いていますので、飯山で最初のスキー場といえます」とある。大正2年にはスキー競技会が開催されている。
飯山市街地にあり、飯山城跡として公園風に整備されている丘陵である。西側斜面から上る車道脇には「長野県スキー発祥の地」という看板も設置されている。また、「本丸から帯郭へ降りる階段をスロープとして練習しており、城山全体が練習場として使われていたことがうかがい知れます」とある。案内板のある西側斜面をはじめ、飯山城本丸があった最上部から各方向に適度な斜度があり、山全体がゲレンデであったこともうなづける。
■英岩寺スキー場
(左)南側から見た英岩寺とその裏山。(右)北西側から見た英岩寺の裏山。
「『市川達譲氏は英岩寺山に於いて生徒にスキーを教授しつつあり成績頗る良好といふ』と昭和45年2月3日付信濃毎日新聞に記されている」とある。場所は北飯山駅から北に向かい、国道292号に出る途中、右手にある英岩寺の裏山にあったようだ。まさに里山の斜面のスキー場という感じがした。この付近には寺院が集中している。それらの裏山は黎明期には格好のゲレンデとなったようだ。
■坊主山スキー場
旧飯山国際スキー場付近とされている。面積が広く、当時は県下一の規模を誇っていたという。本ブログの『飯山国際スキー場』も参照願いたい。
■神明ヶ丘スキー場
後の飯山スキー場の場所にあった。現在の市営ジャンプ場を含む位置であり、飯山市街地のすぐ西側にあたる。本ブログの『飯山スキー場』も参照願いたい。
(左)坊主山の斜面。旧飯山国際スキー場。(右)市営ジャンプ場を見上げる。

→ こちらもご覧ください 「黎明期の飯山のスキー場(その2)」