2010年03月05日

姨捨スキー場(千曲市)

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(左)スイッチバックの姨捨駅から善光寺平を一望する。

「姨捨(おばすて)」という地名を聞いて思い起こすのは、年老いた母親を山に捨てるという姨捨伝説だろうか。それとも棚田に映る「田毎の月」か。鉄道ファンなら、日本三大車窓のひとつでもある姨捨駅のスイッチバックということになろうか。

信濃では 月と仏と おらが蕎麦     詠み人知らず

いうまでもなく信濃の名物を3つ詠みこんだ句であるが、「仏」は善光寺であり「月」は姨捨の「田毎の月」を指している。姨捨は紀貫之の和歌にも詠まれ、平安の昔から月の名所として京の都にも知られた場所だったようだ。また俳人松尾芭蕉は1688年(元禄1)、木曽路を経てこの地を訪れた。『更科紀行』はその時の紀行文で、猿ヶ馬場峠を越えて姨捨に出た芭蕉は旧暦八月十五夜の仲秋の名月を観賞している。

前置きが長くなったが、そんな姨捨にスキー場があったという記載を見つけたのは「冬の信州(昭和28年版(1953年))」。はじめは「まさか姨捨に」と思ったものだった。同誌には「篠ノ井線姨捨駅より徒歩にて25分で到着できる。最近開発されたスキー場で、海抜600m、変化にとんだスロープが多く、初中級者用として適当。すこぶる展望よく、千曲川と川中島古戦場を含む善光寺平が一望にのぞまれる。特に付近に上山田戸倉温泉があり、スキーと温泉を楽しむことができる」と紹介されている。「更級埴科地方誌」などを調べていくと猿ヶ馬場峠へ向かう途中にあったことがわかってきた。

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(左)八幡林池の南畔からゲレンデがあった斜面を見上げる。(2010年2月)(右)斜面上部から見おろす。最下部には八幡林池がある。(2010年2月)

姨捨駅から一段上ったところにある大池の集落で、薪を軽トラに積み込んでいる小父さんに聞いてみると「姨捨スキー場は、この上の八幡林池の右手(北側)斜面にあった」という。昭和15年生まれという小父さんは「中学卒業の頃まではスキー場があって、雪が降った後にはよく滑った」というから、昭和30年(1955)頃まではあったようだ。

大池集落からさらに、大池キャンプ場へと上っていく車道の右手にあるのが八幡林池。この季節は一面の氷で覆われている。池の北側にはむかし開拓で入ったという何軒かの民家があり、その背後から左手にかけて緩やかな斜面が広がっている。上部には国道403号が走っているが、そのあたりまでの斜面がゲレンデだった模様だ。

適度な斜面と見受けられるが、さほど長い滑走距離がとれたとは思えない。リフトやロープトウなどの施設はなかったということだが、ガイドブックに登場しているということはそれなりの集客もあったのだろうか。「今年は雪が多い方だけれど、最近じゃ雪が少なくて、とても昔スキー場があったような面影はないね」と小父さんは話してくれた。

2009年09月11日

地蔵峠スキー場(長野市)

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(左)ゲレンデ下部から上部を見上げる。(右)ゲレンデ中腹から下部を見下ろす。

地蔵峠という名の峠は各地に見られるが、長野市松代と上田市真田(旧 真田町)を隔てる峠もそのひとつである。峠を越える県道は今でも急坂・急カーブが連続するが、千曲川に沿う国道18号は渋滞が激しいため、長野・上田間の抜け道として使われている。

いまでは信じられないことだが、その地蔵峠の北側斜面に昭和40年代にはスキー場があった。資料によれば1927年開設という記録も見られる。今日ではとてもスキー場に足る積雪があるとは思えないが、その頃は北信アルペンスキー大会や少年スキー大会が行われていた(「長野市誌」)。リフト等の施設もなく、地蔵峠へのアクセスも容易ではなかったようだが、峠を越える県道の開通にともない再び賑わいを見せるようになったという(「長野県スキー史」)。

松代側から県道を上っていくと、地蔵峠(車道が越えているのは正しくは「新地蔵峠」)に上りつく前の最後の右カーブから左に入る林道がある。ここから上っていく古くからの地蔵峠を越える山道を進む。ひとしきり上ると右手にスキー場があった広い緩斜面が広がる。スキー場の位置に確信がもてなかったが、長野市役所に問合わせたところ、このスキー場で滑った経験のある方がいらしたとのことで、ここであることは間違いないようだった。大部分は草木が生い茂っていて、リフトもなかったということなので、スキー場であったことを示すものは残っていないようだ。近くに廃屋が見られるが、これが各種資料に載っていた「地蔵峠山の家」なるものかもしれない。天気がよければ、善光寺平の広がりが眺められる。

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ラベル:地蔵峠 松代

2009年06月12日

涌井スキー場(中野市/旧豊田村)

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親川バス停に掲げられた案内図には「涌井スキー場」の文字が。
 
旧豊田村に既出の「大平スキー場」とともにあった「涌井スキー場」。涌井は旧豊田村の西北端にある集落で、信越線古間駅から東に向かい荒瀬原の集落を過ぎて山間部に指しかかったところにあり、旧三水村(現飯綱町)や信濃町と境界を接する場所。「豊田村史」によれば1963年開設当初、ロープトウが1基設置されていたが、やがてトロイカにかわったようだ。

トロイカとは、今でも爺ヶ岳や山田温泉などファミリー向けのゲレンデに見られる、スキーを履いたまま大きな橇の上に乗るようなもの。古間駅からが一般的なアクセスだったようだが、長野方面からの交通アクセスが悪いこともあってしだいに客足は遠のき、わずか数年の営業後、1968年を最後に営業を休止した。

豊田飯山IC方面から上っていくと、まず、親川のバス停に掲げられている「斑尾高原観光案内図」に涌井スキー場が記されていることに心を強くする。何10年も前からかえられていない案内図なのだろう。さらに上ると涌井の集落。涌井は蕎麦がおいしいことでも知られていて、数軒のおいしい蕎麦屋がある。その一番上の一軒の前から、狭い道を少し上ったあたりからゲレンデが広がっていたらしい。

蕎麦屋のお爺さんが「そこにスキー場があった」と教えてくれた。リフトは設置されなかったようでもあるし、痕跡を見出すことはできなかったが。また、ゲレンデ付近と北永江・親川に学生村もあったとされている。風光明媚なゲレンデであったことは間違いないようで、ゲレンデの上には斑尾山が見えるし、振り返れば遠く志賀高原の山々を一望することができる。

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(左)涌井スキー場があったと思われる一帯。(右)「冬の信州'80」を参考に作図。

2009年05月10日

地附山スキー場(長野市)

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(左)ゲレンデ最上部から下部を見おろす。左奥の飯綱山山麓に飯綱高原スキー場が見える。 (右)ゲレンデ最上部にあるロープトウの残骸。

地附山は長野市街の北側に位置し、隣り合う大峰山とともに、私が子どもの頃に長野市民の手軽なレジャーの場として開発された。善光寺の北にある雲上殿付近から地附山山頂にロープウェイが設けられ、山頂には小さい動物園などの施設があった。しかし戸隠バードラインの開設により、飯綱・戸隠方面への通過地点となってしまい、また、1985年には大規模な地すべりが発生したことから、あまり人の訪れない場所になってしまった。ロープウェイは地すべりより前、1975年に営業を休止しており、現在は登山道を歩かないと登れない。

この地附山の北側斜面に地附山スキー場があった。1962年に開設され、1970年まで営業していたらしい。ロープトウが1基あるだけの小さなゲレンデだったが、長野市内の小学校のスキー教室なども行われていた。私の小学校のスキー教室は飯綱高原スキー場だったが、それとは別の機会にここで数回滑ったことがある。子どもにとってみれば、十分に楽しいスキー場だった。

地附山山頂から、西側の大峰山との鞍部に向けて少し(2~300m)くだったあたりに、錆びついたロープトウの残骸が今も放置されているのを、この山に登って目にした方は多いと思う。ここがゲレンデ最上部で、北側に向かってゲレンデがくだっている。途中にロープトウの支柱の残骸もあり、さらにヤブをこいでくだるとゲレンデ最下部と思われる平地に出る。ここにもロープトウの残骸がある。さらに真北に100mほど進むと戸隠バードラインに出る。とはいっても、前述の地すべり以降、この場所は車の通行ができなくなっている。むかし来たときにはバスでバードラインから入った記憶があるが、付近に駐車スペースやバス停の痕跡などはない。記憶は曖昧模糊としている。

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(左)スキー場最低部と思われるあたりにロープトウ機器の残骸。 (右)戸隠バードラインに出るが、ここを通る車はない。

なお「長野市誌」には、物見岩周辺に地附山第2スキー場があったと記載がある。物見岩周辺はスキー場がつくれるとは思えない急傾斜。もう少し下の霊山寺あたりか、大峰山と地附山の鞍部あたりにあったのかもしれない。
ラベル:スキー 長野

2009年04月26日

聖高原第2スキー場(その1)(麻績村)

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(左)リフトの痕跡が前方のピークまでのびている。 

聖高原がさかんに開発されるようになったのは1970年代だっただろうか。当時、中学校の友人たちと聖湖畔で夏のキャンプ生活をした記憶がある。1976年には、篠ノ井線麻績駅を「聖高原駅」と改称したくらいだから、当時の地元の開発への意欲がうかがえる。しかし、最近は再び由緒ある「麻績」に駅名を戻してもいいのではないかという話も漏れ聞いた。

そんな聖高原の一角、聖湖から旧大岡村方面に向かったすずらん湖畔、三和峠付近に少し古いスキー案内書や地図だとリフトの記号が記載されている。ここにあったゲレンデは、聖高原第2スキー場(別名:すずらんゲレンデ)とされ、聖湖に近い第1スキー場(現在も営業中の聖高原スキー場)と区別されていた。残念ながら営業当時に訪れる機会はなかったが、長野方面からも松本方面からもアクセスはかなり悪い場所ではある。はっきりとわからないが、1968年に営業開始。1993シーズンには少なくとも営業を中止していたようだ。ここからすぐ西にあり、来シーズンで営業終了が決まっている聖山パノラマも似たようなアクセス条件にある。 
 
聖湖から三和峠に向かう途中の左側のすずらん湖の湖畔を約半周すると、「奥聖水芭蕉園」の立札がある。地元の努力により水芭蕉の群生地になったものだと聞く。ここから湖畔を離れて左の山中に車を進めると、この水芭蕉園の最上部に出る。ここから少し山腹を登ると、リフト乗場と思われる平地に出るが、リフト乗場の痕跡を示すものは何も残っていない。地図によれば、正面に見える小ピーク(1308m峰)に向かってリフトがかけられていたようで、そのリフトの跡と思われる場所が山頂に向かってまっすぐ切り開かれている。ゲレンデは山頂に向かってリフトの左側にあったようで、最大斜度30度の上級コースはここにあったのだろう。背の高いススキがその場所を覆っている。もう1本平坦地にも初級コースのリフトがあったようだが、その痕跡もよくわからない。

地元では、植林などして豊かな森林に戻す取組みをしているらしい。まさにゲレンデの痕跡は自然の中に消え去ろうとしているが、その一方、湿原では白い水芭蕉の花がちょうど見頃を迎えていた。

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スキー場跡地は水芭蕉園に生まれかわっている。

こちらもご覧ください→「聖高原第2スキー場(その2)(2016年3月17日)」