2009年12月23日

やなばパラレルスキー場[その2](大町市)

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以前「やなばパラレルスキー場」にコメントを寄せていただいたスティーブさんから、1984年当時のやなばパラレルのゲレンデの画像をお送りいただいたので、一部を紹介します。右上写真は中斜面~緩斜面のあたりから急斜面の方向を見上げたところのようです。みっちりとスクールで練習に取り組んでいる雰囲気が伝わってきます。

こちらもご覧ください→「やなばパラレルスキー場(2009年11月1日)」
ラベル:やなば

2009年12月13日

内山スキー場(白馬村)

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(左)中央の杉林のあたりにゲレンデがあった。左右にのびる尾根から手前に落ちる斜面だったという。向こうに見えるのは佐野坂スキー場のゲレンデ。(右)内山集落。現在も「民宿」の看板を掲げた家がみられるが。

戦後の高度成長期に、白馬村では民宿が盛んになった。村の中心部だけでなく周辺集落でも取組みが進められた様子は、「白馬の歩み(4)観光・登山・スキー編」に詳しく記されている。冬期に確実な収入のなかった積雪地の人々にとっては、民宿経営は魅力的な収入源だったに違いない。同誌によれば、白馬村南部の内山地区でも昭和38年から民宿4軒が開業したとある。それにあわせてスキー場を開発し民有地を借りて休憩小屋を建て、50mのロープ塔も架設された。

さらにスキーリフトを設置するため、スキー指導員に地形を調査してもらい、地元の人々が奔走したが実現しなかった。佐野坂スキー場が開発されたため、わずか2年で閉鎖となってしまったようだ。ちなみにこの「白馬の歩み(4)」には当時のゲレンデの写真が掲載されている。青木湖北岸あたりから北東方向を写したようだが、手前の小丘陵の尾根上にゲレンデが開かれ、その向こうの平地に内山集落があり、背後の里山の先に雪をまとっているのは高妻山だろうか。

白馬村の中心部から国道を南下すると、佐野の集落あたりから青木湖岸に向かって上り坂となり、脇には姫川源流の一帯。そのあたりから東に丘陵をひとつ隔てたところに内山地区はある。小さな平地の東側斜面に家々が建っている。一軒の前で冬の薪を準備しているお父さんに声を掛けると、集落と向かい合った平地西側のわずかな距離の斜面にゲレンデが開かれていたことを話してくれた。

「ほんの小さなスキー場で、地元の子どもが滑る程度のものだった」とのこと。指差された斜面は杉林となっていて、ゲレンデの痕跡はまったく見出せない。その向こうには佐野坂スキー場が雪を待っているが、隣接する青木湖スキー場は今シーズン営業しないとのニュースが伝えられている。(現地訪問:2009年12月)

2009年11月08日

宝生スキー場(その1)(新潟県糸魚川市)

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(左)ゲレンデ中間部から雨飾山(右奥)を望む。(右)第2リフト上のゲレンデ。見おろした左手の杉林の中に第2リフトの乗場があった。右奥には明星山の山頂がのぞく。

長野新潟県境に位置し、全長1000m、最大斜度40度、平均20度と起伏に富み、中級者クラスの足慣らしに格好のゲレンデだったというのが、この宝生(ほうしょう)スキー場。姫川温泉に近く、雪質も良いためビギナークラスにも人気があり、上達が早いスキー場として評判を呼んだ。大糸線平岩駅から近いというアクセスの良さもあり、当時はかなり賑わったようだ。リフト2基(437m、400m)で、大糸線平岩駅から徒歩7分(「’76オールスキー場完全ガイド(立風書房)」による)。糸魚川市誌によれば、1963(昭和38)年12月にオープンし1976(昭和51)年3月まで営業したようだ。

姫川に対して左岸の大糸線平岩駅や宝生スキー場は新潟県糸魚川市、右岸の姫川温泉は長野県小谷村に所在。平岩駅近くで姫川に合流する大所川を1kmほどさかのぼった左手北向斜面に、宝生スキー場があった。この大所川をさかのぼると、北アルプス北部への登山口でもある蓮華温泉に至る。たまたま目にした1970年代末のスキーツアーの記録では、天狗原・風吹大池から一難場山を経由して宝生スキー場にくだると、営業中止後の椅子のないリフトが放置されていて、ゴーストタウンのようだ、と書かれていた。

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(左)第1リフトの降場。右の杉林の中に第2リフトの乗場も見られる。

そんな情報をあらかじめ仕入れて、平岩駅前から大所川に沿う県道を蓮華温泉方面に向かう。大規模な砂防工事がおこなわれた様子で、その道沿いからはゲレンデ最下部の様子はよくわからない。さらに進むと道は山腹へとカーブで上るが、カーブの箇所から分岐する林道は東に向かって中腹を水平に進んでいく。荒れ気味のこの林道を歩いていけば、カヤトの広がるゲレンデ中間部に出る。東に紅葉の山並を前景として、雨飾山を眺める展望は素晴らしい。

林道をさらに登って行くと真新しい砂防ダムの上流側のヤブの中に、第1リフトの降場と、第2リフト乗場のコンクリート部分が残っているのを見つけた。昔のゲレンデマップによれば、このあたりに食堂もありゲレンデの中心をなしていたようだ。周囲には草地が広がりゲレンデの雰囲気を残している部分もあるが、植林された杉林が育ち判別が難しくなっている場所もある。思っていたよりも急斜面が多いようだ。振り返れば、明星山が岩に覆われた独特の山頂をのぞかせていた。

こちらもご覧ください → 宝生スキー場(その2)

2009年11月01日

やなばパラレルスキー場(大町市)

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(左)ゲレンデ下から見上げる。(右)ロッジを右手に見て。

大町市街から国道148号で木崎湖畔にさしかかると、その湖面の広がりにほっとさせられる。さらに中綱湖方面へと上って、左には鹿島槍スキー場への道が分かれた少し先の右手山腹にあったのが、やなばパラレルスキー場。似た名前だが、現在も営業を続けるヤナバスキー場(以前はヤナバ国際スキー場といった)はまだ、国道148号を少し北へ進んだところで、大糸線のヤナバスキー場前駅の目の前でもある。

「北安曇誌(昭和59年6月)」によれば、「簗場スキー場」の名前で、「昭和25年(1950)、平村と簗場地元民との協力で開発された伝統をもつスキー場である。簗場駅東側に位置し斜面はきつい。昭和40年、猪谷六合雄がパラレルスキー学校を開設したことから、別名パラレルスキー場とも呼ばれ、親しまれている」と紹介されている。「簗場スキー場」となっているが、これがやなばパラレルスキー場のことだろう。

「大町市史」には、簗場駅から徒歩15分で、スノートロイカが2基設置されているとあり、「長野県スキー史」には「スキー学校専用スキー場」となっている。合宿制のスキースクール専用ゲレンデだったようだ。最終営業年については、はっきり記した資料を見つけていないが、1990年代半ばと思われる。

国道148号線から東に細い道を入ろうとすると「私有地につき、一般車進入禁止」と書かれた立札。脇の空地に駐車し、歩いて未舗装の道を上っていく。いくつかのロッジ風の建物を通り過ぎるとゲレンデ風の草地の下に出る。脇にあるのが、やなばパラレルロッジの建物だろうか。

ゲレンデにはロープトウの跡など施設の痕跡は見あたらないが、紅葉の樹林帯に囲まれた一面のススキの原は、はっきりとゲレンデの形跡を示している。思ったよりも規模は小さいようだ。ゲレンデを上部まで登って振り返ると、中綱の集落を挟んで鹿島槍スキー場のゲレンデが広がっている。その先には、鹿島槍ヶ岳の山頂が霞んでいた。

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(左)ゲレンデ上部からは鹿島槍スキー場が正面に見える。

こちらもご覧ください→「やなばパラレルスキー場(その2)(2009年12月23日)」
ラベル:やなば

2009年10月14日

小谷温泉スキー場(小谷村)

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(左)小谷温泉。(右)「冬の信州'81」などを参考に作図。

「ゲレンデ」という範疇で捉えていいものかわからない。山スキーの拠点として、スキー創成期を支えたのがこの小谷温泉スキー場だった。小谷温泉山田旅館の19代当主であり、自らスキー技術を磨きその普及にも功績があり、小谷温泉スキー場をつくり発展させた山田寛氏のことを記した「小谷温泉讃歌 山田寛 雪の中の青春」にその歴史は詳しく記されている。

現在のように、大手が資本にものをいわせてつくったスキー場ではない。リフトなどの施設はなく、雪が降ればスキーヤーはせっせと新雪を踏んでゲレンデをつくり、スロープの上まではひたすら二本の足で歩いて登る。そんな時代だった。小谷温泉が魅力的だったのは乙見山峠を越えて笹ヶ峰や戸隠方面へ、湯峠を越えて糸魚川方面へ、さらに大渚山へといろいろなツアー・コースが組み立てられ、バラエティーに富んだスキーを満喫できるところにあった。

大糸沿線にスキー場が輩出してブームが訪れるのは昭和25~26年のことであり、昭和初期にはこのあたりでスキー場といえば小谷温泉しかなかった。昭和5年には50人収容のヒュッテができ、おもに立教大学山岳部が利用したという。昭和10年に大糸線が中土まで開通したが、中土からは徒歩3時間。その後、途中までバスが通うようになり、「冬の信州'76版」には「バス田中下より徒歩1時間」と案内されている。こうした賑わいも、大糸線沿線に大資本を投入した近代的な設備を備えたスキー場が開発されるにしたがって、少しずつ減少していった。

そのころ山スキーの講習会の残りの時間でゲレンデスキーを楽しんでもらうよう、ミニリフトを準備したとのことだが、備えつける間もなくスキー客は減少してそのままになってしまったという。ちなみに小谷温泉の開湯については、戦国時代(1550年代=弘治年間)に武田の家臣が見つけ、戦で受けた傷を癒すのに役立てたとの話が残されている。

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(左)雨飾荘西側に広がる斜面。(右)雨飾荘前の案内図には「小谷温泉スキー場」の表示が残っている。

小谷温泉から雨飾山方面に向かって舗装道路を少し進むと村営雨飾荘がある。ちょうど現地を訪れたときは、営業をやめて解体作業の真っ最中だった。その西側、真向かいになだらかな斜面をもったカヤトの原が広がる。ここがかつての小谷温泉スキー場。昭和2年に最深積雪が7m47cmを記録したこともあるほどの豪雪地だという。雨飾荘前の案内図には「小谷温泉スキー場」の文字が見られる。

いまでも背の高い木は少なく、何となくゲレンデがあった雰囲気が感じられる。ここからさらに上には鎌池平が広がり、そのあたりまでスキーを広範に楽しめる場所だったと思われる。最終営業年は「小山泰弘:長野県における休廃止スキー場の実態とその後の植生変化」によれば、1994年となっている。

「小谷村誌」には「近年、雪不足のスキー場が多い中で、この地域の降雪量の多さに着目し、スキー場開発の計画は幾度となく浮上しているが、いまだ足踏み状態である。一方で、そのままの自然環境を残すべきだという声もあり、今後の成行きに注目したい。」という記載が見られる。しかし、スキー人口がこれだけ減少してしまっては、スキー場開発などとても現実的ではないだろう。
(参考資料:「小谷温泉讃歌 山田寛 雪の中の青春」「小谷村誌」「冬の信州'76版」「小山泰弘:長野県における休廃止スキー場の実態とその後の植生変化」)(現地訪問:2009年9月)
ラベル:小谷温泉