2009年09月01日

神城スキー場(白馬村)

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(左)ゲレンデがあった一帯。(右)ゲレンデ最上部。春にはカタクリが咲き乱れる。

神城スキー場は、白馬五竜スキー場の南隣の位置にあり、上部で同スキー場と接していた。第二次大戦後、白馬五竜の誕生する前から白馬村の三大スキー場として賑わい、1956年には白馬村内3本目のリフト(木柱)が設置され各種の大会も開催されたが、1982年に営業を休止している(参考資料:小山桂子・小林詢「放置されたスキー場における植生変化」)。

白馬五竜スキー場の一番南にある「とおみスカイフォーリフト」。そのリフトに沿って、ロッジなどが建てられているが、その南側を上っていったあたりが神城スキー場の所在地だったようだ。神城スキーヒュッテの下を過ぎ、道がやや左にカーブする正面の山腹途中まで刈り払われた跡があり、ここが神城スキー場の最上部。この丘陵の尾根を越えて白馬五竜スキー場とつながっていた時期もあるらしい。最上部はかなりの急傾斜に見える。おりしも真夏の晴天。上空にはパラグライダーが飛び交っている。

神城スキーヒュッテの南側にリフト乗場があり、そこからゲレンデ左側にリフトが設置されていたようだが、その痕跡は見出せなかった。かつてのゲレンデに隣接するロッヂの人の話では、白馬五竜スキー場ができる前には神城スキー場しか存在していなくて、バッジテストなどもおこなわれ賑わいを見せていたという。その後、大規模な開発を隣接する白馬五竜スキー場に譲るようなかたちになったようだ。かつてのゲレンデの一部や隣接する土地は、「五竜カタクリ苑」として整備されていて、5月にはカタクリの花を見に多くの人が訪れるとのこと。

私がはじめて五竜とおみ(現・白馬五竜)スキー場を訪れたのは1990年のことで、そのときは神城スキー場はもう存在しなかったのだけれど、白馬のスキーリゾートとしての創成期をささえ、都市圏からも多くのスキー客を招いたであろうこのゲレンデの役割は大きかったのだろう。いまはカタクリの花など、自然の姿をそのまま楽しめる場となっているようだ。(現地訪問:2009年8月)

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(左)白馬五竜スキー場の南側、チャンピオンエキスパートコースの左手に広がる雪原部分に神城スキー場があった。(右)「冬の信州'81」を参考に作図。
ラベル:神城 白馬

2009年08月19日

南神城スキー場(白馬村)

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(左)ゲレンデを下部から見上げる。(右)ゲレンデ中腹から下部を見下ろす。

南神城スキー場は、白馬村の南部、南神城駅の北西部山麓の東斜面に設けられていた(参考資料:小山桂子・小林詢「放置されたスキー場における植生変化」)。南神城駅からやや北に進み、大糸線を踏切で横切ってまっすぐ西側の山際まで進む。貞麟寺という大きなお寺の裏側に進む道から、西側の谷状の斜面に樹木のない一帯があり、はっきりゲレンデの形跡が認められる。最上部は30度をこえる急斜面だったようだ。真夏のこの時期には、背の高い草に一面覆われている。

ゲレンデ下にある農家から涼みがてら木陰に出てきた古老に話を聞くと、ゲレンデ・トップに向かって左側にTバーリフトがあったとのこと。かつてはカヤ場も兼ねていて、カヤの刈り取りも行われていたようだ。ほんの数年間だけのスキー場だったとの話だったが、資料によれば1952年頃~1965年頃までの営業だったとある。

「白馬の歩み(4)」によれば、神城村の観光課の勧めで、沢渡集落の西方にスキー場を開発して民宿を始めることになったということだ。「南神城スキー場」という名にして南神城駅に案内板をたて、また当番を決めて列車が到着するたびに出迎えに行って誘客に努めたようだ。松本市役所や松本市内の自動車会社のスキー客を誘致し、賑わいを見せたこともあるらしい。

現在では周囲はのどかな農村で、宿泊施設のようなものも見あたらず、かつてスキーを楽しむために人々が集まったという痕跡は見出せない。話を聞いた老人は、からだがいうことをきかなくなり、農作業も思うにまかせないことを嘆いていた。(現地訪問:2009年8月)

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(左)ゲレンデに咲いていたハギとミツバチ
ラベル:南神城 スキー

2009年07月17日

牧寄スキー場(白馬村)

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(左)鬱蒼とした樹林の中にリフトが残されていた。(右)ゲレンデがあったところもこんな樹林帯に。

スキー人口が減少し、オーストラリアなどからの誘客に力を入れているとは聞くものの、「白馬」のウィンタースポーツにおけるネームパリューは依然として大きいと思う。八方・五竜・岩岳といった名門スキー場は、今も多くのスキーヤーを魅了してやまない。もともとそんな大規模なスキー場ばかりだったのかと思っていたが、創成期には今は存在しない小さなスキー場もあったようだ(参考資料:小林詢教授先生退官記念論文集『山・雪・地形』小山桂子・小林詢「放置されたスキー場における植生変化」)。

そんな中のひとつである牧寄スキー場は、大糸線・信濃森上駅の北にある丘陵の西斜面にあった。1962年に、谷状の地形に長さ700mのリフトが設置され、営業当時はカヤ場と兼用されていたという。スキー学校も開校され、検定も実施されていた。しかし、岩岳スキー場の開発が進むのにつれスキー客もそちらに移っていき、1969年にリフト営業は休止、1973年にはスキー学校も閉校となった。白馬村公民館のスキー大会が牧寄スキー場の最後の催しだったという(「白馬の歩み」より)。その年代には、まだスキーをする年齢になっていなかった私は訪れたことはなかった。

国道148号線で白馬村の中心を過ぎ、小谷方面に向かう。岩岳入口の交差点を過ぎて、すぐに左折して山麓まで農道を進むと「軽自動車以外進入禁止」の標識。さほど荒れていない林道を進むと、ときどき大きなカーブを切りながら右手の丘陵を上っていく。坂が緩むと右手の鬱蒼とした森林の中にリフトの残骸が見えた。ヤブをこいでリフトに近づいてみると、1本だけあったシングルリフトが営業時ほぼそのままの姿で残っているのだった。

乗場の前はやや広い草地となっているが、周囲のゲレンデの痕跡は樹林帯の中に飲み込まれてしまっている。リフトに沿ってゲレンデがあったと思われる樹林の中を進もうとしたが、ヤブが深くてこの季節にはとても進めるものではなかった。現在の「白馬」のイメージからはややかけ離れた、小丘陵に位置する小さなゲレンデの姿がしのばれた。

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(左)ゲレンデに向かう林道に「歩くスキー」の掲示。(右)信濃森上駅から見上げた牧寄スキー場があった丘陵。
ラベル:スキー 白馬

2009年03月28日

大町スキー場(大町市)

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(左)第1ペアリフト下からゲレンデ上部を見上げる。

「長野県下で最古のスキー場」と書かれた資料があったが、ほんとうかわからない。「大町市史」によれば、1927年(昭和2年)に開業したとある。大町市街から旧美麻村方面にわずかに行ったところ、大町から長野へ向かう特急バスも走る幹線といってよい県道沿いに位置する。幹線道路に面しているため、スキー・スノーボードをしない人でもここにスキー場があることを知っている人は多いと思う。

かつては道の東側にもいくつかのゲレンデが点在していたようだが、最後まで残っていたのは道の西側に広がる第1・第3リフトのあるゲレンデだった。ここは快適な一枚バーンだったが、それだけの規模ではなかなか集客は難しかったのではないか。周辺に数件のロッジやレストランが残っていて、ファミリーをターゲットにしていたようではあったが。2008年に閉鎖を表明し、跡地は「遊びの広場」として活用する計画と聞いたが、どう進行しているのか現地を見た限りではわからない。第1・第3リフトはまだ撤去されずにそのまま残されている。

「'86 SKI GUIDE(山と渓谷社)」には「北アルプスの玄関口・大町市郊外の丘陵地20haが道路を境にして、上級者向きの競技会も開催できる第1ゲレンデ、スキートロイカ・エスカレーターが設置されチビッコの講習会として多く利用される第2ゲレンデ、小学生に適したファミリーゲレンデのそれぞれ独立・分離された3ゲレンデとなって展開する。春から秋にかけては牧草地のため、小雪でも滑走可能となり、スキー場中央に駐車場があるので、車では大変便利」と紹介されている。中山第1リフト480m、第2リフト270m、第3リフト420m。

私は2003シーズンに子どもづれで訪れたが、トップシーズンの1月の土曜日だったにもかかわらず、数人しか滑っていない状態で寂しかった。正面の一枚バーンは距離は短いけれどけっこう楽しく滑れたと記憶している。

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(左)営業していたときのようす(2003年1月)。