2012年10月17日

赤城山第2スキー場(群馬県前橋市)

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(左)「入漁券取扱所案内板」には第1~3スキー場の所在地が明記されていた。(右)釣り宿の奥に第2スキー場の跡地。

赤城山は北関東の名山だと思う。東京から上信越方面に向かう鉄道や道路からは、のびのびと裾野へひいたその優美な稜線を眺めることができる。深田久弥の『日本百名山』(1964年)には「春秋の行楽期のみならず、冬のスキー場としても多くの人が訪れるようになった。赤城をスキー場として開いた人は、かつて大沼湖畔大洞の猪谷旅館主であった猪谷六合雄さんである。猪谷さんはまだ日本にジャンプが珍しい頃に、逸早く地蔵岳の東面に自分でシャンツェを設計したほどの先駆者であった。スキー界の麒麟児千春君など、まだこの世に姿も見せなかった頃である。」と記されている。

そのように昭和初期には赤城山は、雪質良好な日本を代表するスキー場として名前があがるほどだった。1929年(昭和4)には前述のシャンツェで日本初の国際ジャンプ大会が開かれた。昭和30年代には地蔵岳山頂へのロープウェーが建設され、山頂から麓まで約3kmの爽快な大滑降はスキーヤーたちの憧れの的になった。しかし、そのロープウェーも1998年に営業を休止。かつてのその大ゲレンデの一隅は、現在、Tバーリフトだけが営業するファミリーゲレンデ「赤城山第1スキー場」として存続している。大沼湖畔には第2スキー場・第3スキー場があったが、それらは現在では、Tバーリフトの営業も終了して、子どもたちのソリ遊び場のようになっている。

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(左)第2スキー場。ゲレンデ下部から見上げる。(右)Tバーリフト施設が残っていた。

私自身、赤城山には、その最高峰である黒檜山登山や覚満淵・小沼あたりの散策にと数回訪れたことがあったが、スキーをする場所という観念はあまりなかった。久しぶりに前橋市街から赤城山への道をたどる。赤い大鳥居をくぐり標高をあげていくと、霧が深くなってきた。平地では残暑が厳しい晴天だったが、山上は深い霧に覆われて肌寒いくらいだ。大沼湖畔の周回道路に出て沼尻方面へ左折し、赤城山第2スキー場を目指す。その先の釣り宿の裏にゲレンデの痕跡があった。近くの道の脇に古い地図もあり、第1・第2・第3スキー場の場所を示していた。宿の駐車場は釣り客の車で賑わっている。

見上げるゲレンデは一部深いススキに覆われているが、快適な滑走ができそうな北向きの中斜面。上部に行くにしたがってやや右にねじれ曲がっている。一段上がった左側にTバーリフトの施設があり、上部にも終点の設備があった。宿の前でご主人らしき人に聞いてみると「ここまでスキーをしに来る人はあまりいなくて、いまは子どもたちがソリ遊びをするくらい。Tバーリフトを動かしていたのは何年ぐらい前までだったか……」と記憶も曖昧なようす。ゲレンデ最上部まで登ってみると、正面には大沼の湖面が見下ろせた。あいにく霧が深くて展望は開けないが、晴れていれば湖面の向こうに黒檜岳を見ながら、快適なスキーが楽しめたのではないかと思う。(現地訪問:2012年9月)

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(左)第2スキー場。ゲレンデ上部から見おろす。(右)ゲレンデ上部のTバーリフトの施設。

2011年03月12日

宝川温泉スキー場(群馬県みなかみ町)

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(左)ゲレンデ最下部から見上げる。

80~90年代の一時期、宝台樹スキー場が結構気に入っていて、東京から毎シーズンのように通っていた気がする。メインゲレンデの右側にそそり立つ幾つかのバーンはとても魅力的だった。だいたいは日帰りだったのだが、そんな宝台樹への行き帰りに仲間の一人が「どうせなら宝川温泉あたりに泊りたいね」などといっていたのが記憶に残っている。

その頃は、宝川温泉といっても知っている人はあまりいなかったが、いまや海外からの観光客の間で一番人気の温泉宿だという。「2008年外国人からの注目度が高かった観光名所・総合ランキング」では草津温泉などをおさえて16位にランクされている。都市部以外の温泉でランクインしているのは、この宝川温泉だけである。東京から適度な距離にあり、山間の広大な混浴露天風呂や趣を凝らした川沿いの客室が人気の理由かもしれない。

この宝川温泉の裏山のような場所に、シングルリフト1基だけの小さなスキー場があった。「skier'91 日本のスキー場・東日本編」によれば、「宝川温泉エリアにあるコンパクトなスキー場。日曜日でもリフト待ち時間がほとんどゼロ、という穴場的存在でもある」と紹介されている。中級80%、初級20%。シングルリフト1基、最大斜度15度、最長滑走距離500m。現時点の調査では、開設や営業終了の年月ははっきりしないが、営業終了は2000年前後ではないだろうか。

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(左)スキー場最下部。左の建物はスキーと関係があったのか不明。(右)宝川温泉の入口。中央の門をくぐって左に進むと宝川温泉汪泉閣。右の道を上っていくとゲレンデ下に出る。

国道291号を北に向かい、左に大穴スキー場を見て県道63号へと右折するのは懐かしい宝台樹への通い道。藤原湖の湖畔を走り、宝台樹への分岐を過ぎて左折、利根川を渡って山中に入っていくと宝川温泉へと導かれる。温泉の入口に大手門という立派な門が立っているが、そこから右手に一段上に上がった所にゲレンデの跡地があった。いまは草が覆っている斜面は、さほど広いゲレンデだったとは思えない。温泉を訪れた人が、「ついでに」スキーをするくらいだったのだろうか。リフトなどの施設はすっかり撤去されている。大手門横の別館文山の前で掃除をしている方に聞いてみると、確かにその場所にはスキー場があったのだけれど「スキーをするお客さまはあまりいらっしゃらなくて」廃止になったと話してくれた。(現地訪問:2010年9月)

ラベル:宝川温泉

2010年06月08日

沼田スキー場(群馬県沼田市)

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(左)「市民の森」の駐車場から見上げた斜面。(右)道路沿いから斜面を見上げる。

関越道・沼田ICからアクセスする数多いスキー場の中で、玉原(たんばら)だけは「沼田ICを出て右折する唯一のスキー場(他のスキー場は左折)」。スキー場が混雑していた年代には、「だから道も混雑しなくて良い」といわれたことがあったが、はたしてどうだったか。ちなみに玉原スキーパークには1回だけ滑りにいったことがあるが、緩斜面が多いゲレンデだという印象が残っている。

その現在の玉原スキーパークに行く途中に、昔あったのが市営沼田スキー場。沼田ICから玉原高原や迦葉山を示す標識に従って、関越道のガードをくぐり北上し、上発地集落を通り過ぎて車を進ませる。やがて民家も途絶えがちになった頃、右側の斜面に「市民の森」を示す標識がある。これが昔あった「沼田スキー場」の現在の姿。一段、上ったところに駐車場やトイレなどが置かれ、そこからゲレンデの斜面を登るように遊歩道が整備されている。

桜の木が植林されていたが、とうに花は散ったあと。レンデツツジが綺麗だった。途中には展望用のデッキや四阿なども整備されている。ゲレンデ上部から見おろすとなかなかの斜面に見えた。リフトなどスキー場の施設は綺麗に撤去されその痕跡を見出すことはできなかったが、このように整備された姿にはやはり好感が持てる。

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(左)「市民の森」の案内図。(右)上部の展望デッキ付近から下部を見おろす。

「50年のあゆみ 沼田市行政史(2004年11月)」には「市民の健康増進や青少年の健全育成を推進する冬季スポーツの場として、また市北部の観光開発を目的として、上発地町地内国有林に市営沼田スキー場を開設し、昭和40年12月28日会場式を行った。当時は水上町の大穴、鹿野沢、湯原のほか、片品村の戸倉とオリンピアスキー場があるのみで、観光の目玉施設として期待も大きく……(後略)。」と記載されている。

300mのシングルリフト1基とともに、ロッジ6店も営業開始。昭和41年12月には120mのロープ塔も整備され、市民スキー大会はじめ県内11市の都市親善スキー大会や小中学校・育成会のスキー教室なども開催され、多くの市民に親しまれたようだ。当初のリフト料金は1回券40円、6回券200円。なお、沼田市商工課の記録によれば、入場者数の推移は(昭和42年)20,000人(50年)47,300人(59年)14,200人となっている。

1985年(昭和60)の関越道・沼田IC開通当時は「沼田ICから30分。東京から一番近いスキー場」のキャッチフレーズもあったという。しかし、前述の玉原スキーパークのオープンを控えた1988年(昭和63)3月13日を最後として、営業を終え閉鎖となった。ここから数キロ奥に位置する玉原スキーパークにその後の発展を譲ったかたちとなっている。開設以来23年間の利用者は37万9770人、リフト収入は6672万4200円と記録されている(「沼田市行政史」による)。(現地訪問:2010年5月)
ラベル:沼田スキー場

2009年08月25日

武尊オリンピアスキー場(群馬県片品村)

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(左)武尊高原ホテル前から見上げた第2ゲレンデ。

所用で群馬方面に行く機会があったので、何年か前(2001年)から営業中止になったと聞いていた武尊オリンピアに寄ってみた。東京在住当時に何回か訪れたが、最後は1991年1月に職場の仲間と武尊高原ホテルに1泊で訪れている。そのときは1日目は武尊オリンピア、夕食後に目の前に見える第1ゲレンデでナイターも滑り、2日目はもっぱら国設武尊(現在のスノーパル・オグナほたか)で滑った。スキーシーズンの関越道は週末になると大渋滞し、「沼田IC出口渋滞××km」が交通情報の決まり文句だった頃の話。ひとつ手前のインター(当時は昭和ICはまだなくて赤城IC)で降りて裏道を駆使するなど、いろいろなことも考えた。バブル末期に川場・玉原・サエラが登場するが、それ以前、片品村7スキー場は関越道方面では東京から近く手頃なスキーエリアだった。

ペアリフト3基とパラで架かるシングルが2セットで、要するにリフト5本程度の規模。地形とリフトの配置が多少複雑で、リフトの乗り継ぎに無駄が多かったけれど、それがゲレンデの奥行きとローカルな雰囲気を感じさせていたと思う。現在も営業を続ける「オグナほたか」とは連続したゲレンデであったが、規模や滑り応えは一歩ひけをとっていたかもしれない。共通券は片品村7スキー場共通券をのぞいては、発売されていなかった。

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(左)道標にはまだ、武尊オリンピアの文字が。(右)造成されたサッカーグラウンドと廃墟となっている武尊高原ホテル。

沼田ICからの国道120号沿いには店も増え、「日帰り温泉」の案内看板がずいぶん目につくようになった。途中の案内標には、オリンピアの文字が残るもの消されたものさまざま。入口のゲートにはスキー場の文字にかわって「温泉郷分譲地」の文字があり、周辺は別荘地としての分譲が進んでいるようだ。武尊高原ホテルは壁が崩れ落ち無残な姿となっていたが、その周辺にはいくつかのサッカーグラウンドが造成されていて、ちょうど夏休みでもあるので、少年サッカーの大会が行われているようだった。その先に第1・第4リフトの乗場があったはずだが、すでに撤去されていて痕跡を見出すことは難しい。その他、リフトの設備は撤去されているようだが、第2ゲレンデを少し登った右手には第2リフトの基礎コンクリート部分が草の中に埋もれていた。奥まった第3リフト周辺の様子はわからない。周辺はさらに整備されていく様子であり、生まれかわる姿に期待したいと思う。(現地訪問:2009年8月)