2010年12月10日

奈川温泉スキー場(松本市/旧奈川村)

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(左)奈川温泉・岩花荘。その裏に奈川温泉スキー場があった。ロープトウで正面奥の尾根上まで上り、その上がゲレンデだったらしい。(右)樹木が育ちゲレンデの跡はよくわからない。菱形にかすかに樹木の薄い部分がゲレンデの跡と思われる。

旧奈川村は乗鞍の麓にある山間の地という印象が強く、その谷に分け入るときは何かしらの緊張感をともなう。国道158号を松本から上高地方面に走り、奈川渡ダム手前のトンネル内で左へ分岐。上高地・乗鞍方面に向かうルートとわかれると、とたんに車の数が減る。梓湖と奈川に沿う谷に入り、中心部の黒川渡で西に折れて奈川温泉に向かう。

奈川温泉「富貴の湯」の近くで、地元の老人に奈川温泉スキー場のあった場所を聞くと「岩花荘の裏にあったんだ」とのこと。「下の方は平らだったけれど、上のほうは急斜面。リフトはなかったけれど、ロープトウがあったね」という話だ。しかし、岩花荘の前まで行って裏の斜面を見上げてもそれらしい気配はない。「あの尾根の所までロープがあって、それで登った上がゲレンデだった。今はもう木が茂って、跡はわからないね」といわれた。谷あいの道沿いから一段登ったあたりにゲレンデがあったらしい。

この谷をさらに進み、反転してゲレンデがあった山腹に上がっていく林道をたどってみる。ゲレンデの上部に出られるはずだが、奈川温泉の真上と思われる場所まで行っても、なんとなく樹林が薄いところはあるのだが、はっきりとしたゲレンデの跡はわからなかった。次に、反対側、つまり谷の北西側にある乗鞍スーパー林道を少し登ったあたりから、対岸を見ると菱形に樹林帯の色がかわっている部分がなんとなく見つけられた。地形図を見ると、黒川南岸の岩花荘から標高差50mほど上にやや平坦な場所があり、荒地の地図記号が表示されている。そこがゲレンデの跡のようだ。

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(左)ゲレンデ最上部と思われるあたり。(右)奈川温泉「富貴の湯」「野麦荘」

「奈川(奈川村誌歴史編)」を読んでみると、この奈川温泉スキー場の歴史は温泉の開発と切り離しては考えられないようだ。奈川村の温泉は古くから、おかゆを炊くとおいしい冷泉として知られていたが、昭和26年に奈川村観光協会が発足するとスキー場の設置と温泉開発が最優先の課題となった。観光協会と村は高温の源泉を求めて昭和30年代に数回にわたってボーリングをおこない、ついに46.5℃毎分200ℓの湯の噴出に成功した。スキー場は昭和初期から天然のスキー場が木曽路原(現在の野麦峠スキー場付近)と大原にあり各種のスキー大会も催されていたが、奈川温泉近くに昭和33年に温泉客も当て込んだスキー場が開設された。このスキー場は、昭和55年頃まで営業し本格的なスキー産業が根付く契機となったという。

今はもう松本市の一部となって奈川村という行政単位もなくなり、施設の整った野麦峠スキー場すら経営の厳しさを伝えられている。秘湯的な雰囲気をもつ奈川温泉を訪れる人は多いようで、この日も富貴の湯付近に首都圏・中京圏ナンバーの車が何台もとまっていた。(現地訪問:2010年11月)
ラベル:奈川温泉

2010年06月16日

大平スキー場(飯田市)

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(左)大平宿。山間の宿場の風情を残す。(右)「大平峠県民の森」は湿地には木道が設置され、夏焼山などに登山道がのびている。その斜面がゲレンデだった。

このスキー場を語るには、まず大平宿から話を始めければならないだろう。飯田と木曽方面を結ぶ交通路といえば、現在では清内路を経由する国道256号ということになるが、かつては大平宿を経由し大平峠(木曽峠)を越える大平街道が主流だった。飯田市街から車で急カーブの連続する県道8号をたどって30分以上。ようやく、飯田峠を越えて大平峠の手前にある大平宿に到着できる。

街道に面して2階を張り出した「せがい造り」と呼ばれる建物が軒を連ね、山間の宿場の風情を残している。いまは廃村となっているが「大平宿をのこす会」がボランティア活動で、維持・管理にあたっている。この宿場から南木曽方面に向かって数キロ車で進み、大平峠の手前を右に入れば「大平峠県民の森」が整備されている。湿原には木道も設置され、さまざまな遊歩道がつくられ、夏焼山や兀岳の登山口にもなっている。

この北向き斜面が「大平スキー場」の跡地にあたる。管理棟の当番でやってきた小父さんに話を聞けば、リフトの残骸らしきものがあるという。管理棟の裏に案内されたが、舟形の底面に手摺が付いているからリフトやロープトウではなくトロイカではないかと思われた。斜面を見上げると滑走に適した中斜面のように見える。一部には潅木が茂り、スキー場としての面影は消え去ろうとしているようだ。

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(左)ゲレンデ脇にあったリフト(?)の残骸。トロイカのように見えた。(右)「大平峠県民の森」にある地図には「旧スキー場」の文字があった。地図上方は南をさしている。

「長野県スキー史」には「伊那谷南部の中心地飯田から西方に約20km登ったところが大平高原。冬は北西の季節風があたり、雪は10月末頃から降り、最大積雪量は2mにもなるという。冬期3ヶ月ぐらいは車の交通の途絶したこともある」と記載がある。信州南端のこの地域でもこれほどの積雪があるということは、想像していなかった。

さらに「昭和6年、南信スキークラブ(飯田スキークラブの前身)と大平自動車(株)で、東川の水道取水地北側の斜面に画期的なスキー場を開発。しかし、戦雲をつげるとともに閉場となった。昭和27年初冬、兀岳1636mの麓に大平スキー場を開設。昭和31年2月にはスキー講習会が開催されるほどになった。ここも手ぜまになり、新しい場所をさがした。33年、木曽峠1358mの北側で奥石沢の広大な斜面を伊賀良財産区から借り受けた。ここにクラブ員の奉仕と行政側の努力により、大平奥石スキー場が生まれた」と記録されている。

最後の昭和33年開設の場所がこの県民の森と思われる。しかし最寄の峠の宿場・大平集落は過疎化が進み、1970年(昭和45)1月、27戸91人が集団離村。バス路線も廃止され、1972年(昭和47)冬より道路の除雪が中止されたため、スキー場も閉鎖となった。時代の変化の中で消えていった宿場と、運命をともにしたスキー場のようだ。(現地訪問:2010年6月)
ラベル:大平スキー場

2009年10月25日

白骨温泉スキー場(松本市/旧安曇村)

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(左)リフト乗場の残骸。

何年か前に湯に入浴剤を混入していたことが発覚し、話題になった白骨温泉。浴室を改装したら、湯が白濁しなくなったからというのが入浴剤を入れた理由とか。そんな騒動があった直後に家族で出かけたが、やはり信州を代表する名湯だと思った。白骨は古くは「白船」と呼ばれていたようで、湧き出した湯は透明だが、湯船に注がれると白濁し、湯船が白くなることからそう呼ばれていたようだ。この白骨温泉に昭和45年頃までスキー場があった。

「長野県スキー史」によれば、白骨温泉スキー場は1955年(昭和30)1月の開設。白骨温泉から10分ほどのところにあり、標高1,550m、針葉樹や白樺林に囲まれたゲレンデは主に北向斜面で雪質も良好アスピリンの粉雪、初中級者には最適と記されている。白骨温泉は冬は雪に閉ざされるために、古くは4月から11月までの温泉場だったようだが、スキー場の開設とともに冬期もスキーの基地として訪れる人が増えていったようだ。「安曇村誌」によれば、1960年(昭和35)にロープ塔、1963年(昭和38)にスキーリフト1基(300m)が建設されたが、リフトは1970年(昭和45)に撤去されたようだ。また、このゲレンデ開設当初には夜間照明があり、ゆるい斜面で初中級者の練習に向いているとの案内も見られる(「全国スキーゲレンデガイド」プルーガイドブックス26・1962年(昭和37))。

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(左)ゲレンデ上部と思われる斜面。(右)紅葉の白骨温泉の谷から、雪を纏った乗鞍岳山頂を望む。

白骨温泉でも、混浴の大露天風呂が有名な「泡の湯」は中心からやや離れている。「泡の湯」から少し上って東に入ったところに「小梨の湯 笹屋」という宿がある。そのすぐ下にリフト乗場のコンクリートの痕跡が残されていた。すぐ脇には食堂の廃屋が傾いていて、ここからほぼ南に向かって上っている白樺の疎林の傾斜地に、ゲレンデが開かれていたと思われる。一帯にはクマザサやススキが生い茂っていて、その他にスキー場の痕跡を示すものはなかった。ただ、側らの木に「こどもらんど そり・スキー場」と書かれた板切れが括り付けられていて、リフト撤去後も子どもの雪遊び場のようになっていた様子がうかがえる。

周囲の山並は紅葉の盛りで、白骨の谷はさまざまな色で埋め尽くされていたが、曇り空のもとではいまひとつ色合いはくすんで見えた。湯の温かさが恋しい季節。遠く山頂部に雪を纏った乗鞍が望まれた。山はもう冬を迎え、ゲレンデに雪が積もる日も近くなった。

2009年09月29日

横山スキー場(伊那市)

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(左)「寺社平」の説明板とキャンプ場の敷地となっているゲレンデ。(右)横山集落に掲出されていた観光案内図には「横山スキー場」の文字が表示されている。(案内図にあった個人宅名は白で消しました)。

伊那市の西方、横山集落から山に分け入った横山スキー場は、伊那谷におけるスキー場の草分けといわれている。長野市に住んでいると南信の伊那谷は暖かくてスキーとはあまり結びつかないイメージがあるが、積雪は戦前に1mを超すこともあり平均50~70cmはあったらしい。

横山集落から西にむけて未舗装の林道を2~3kmのぼると、キャンプ場に出る。昔は横山集落からは歩くほかなく、40分ほどかかったらしい。そういえばこのあたりは木曽駒ケ岳への登山口でもある。キャンプ場の一番下には「横山高原少年の家」などの建物がある。西に向かって広がるキャンプ場の草地が横山スキー場の跡地のようだ。伊那市教育委員会による「寺社平の歴史」という説明板があり、昭和7年から45年までスキー場であったことにも触れられている。適度な斜度をもった斜面は、快適な滑走をもたらしてくれたと思われる。中央アルプスを見上げ、白樺の木々ごしに眼下には伊那谷が見える。初秋の花がゲレンデを埋めていた。

「長野県スキー史」には「伊那電気鉄道(飯田線の前身)が昭和4年伊那町の西方、横山部落の中央アルプス山麓、標高1,100mから1,200mのところへ、同部落を援助して約5町歩のスキー場をつくった。これが昭和45年頃まで栄えた横山スキー場であり、伊那谷スキー発祥の地である」という記載がある。リフトはなかったようだ。

戦前は地元の子どもをまじえて、主として伊那電の宣伝による客が多く、初心者向けのゲレンデだったようだ。驚くべきことに50m級のジャンプ台をそなえていたという記録も見られる。郡内のみならず、下伊那・諏訪・木曽方面から来る者も多かったという。戦後になって再び、横山スキー場は賑わうようになったが、交通便利な他のスキー場に比べバス停から40分、自家用車も入らないことや雪不足もあって、45年頃から衰退の一歩をたどったという。スキー場廃止後はキャンプ場として整備され、おもに小学生の野外活動に利用されている。(現地訪問:2009年9月)

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(左)ゲレンデ上部から見おろす。
ラベル:スキー 伊那市

2009年08月12日

宮田高原スキー場(宮田村)

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(左)キャンプ場からゲレンデがあった放牧地を見上げる。(右)ゲレンデ上部からキャンプ場付近を見おろす。

宮田村は伊那谷のどこかにあるというくらいは分かっていたものの、はっきりした場所はあまり認識できないでいた。今回はじめて伊那市と駒ヶ根市の間にあり、そこからずっと西の山に登っていったところに宮田高原があると知った。

宮田村と宮田観光開発(株)・伊那自動車(株)は、1970年に宮田高原をスキー場として開発することを計画。8月に着工し、12月20日に宮田高原スキー場がオープンした。このスキー場は初心者向けに好評であり、毎年スキー学校も開かれ、バッジテストも行われた(「宮田村誌」による)。しかし、曲がりくねる長い山道をたどらねばならないアクセスに難があったためか、1987年を最後に営業を休止している。その後も夏季を中心にこの高原にキャンプ場が開かれ、宮田村の重要な観光スポットとなっているようだ。以前は夏に牛の放牧も行われていたが、それは数年前に中止となったようだ。

宮田高原へのアクセス道路は全面舗装ではあるものの、細く、急坂・急カーブの連続で、この地に馴染みのうすい私は運転に気をぬけなかった。ようやく宮田高原に登りついて、かつて放牧が行われていた草地の広がりを見てほっとする。舗装道終点にある管理棟前に車をとめて少しくだると、バンガローなどのキャンプ場の施設がある。この日も何組か中京方面からキャンプに来たグループがいるようだった。そのキャンプ施設の炊事場の下あたりにリフト乗場があったらしいが、施設は完全に撤去されていて痕跡は見出せない。さらにくだったところに小さな湿地や池があり、そこから登り返した南側にある放牧地がゲレンデだったようだ。ゆるやかな傾斜をもった放牧地は、うってつけの滑走地だっただろう。ゲレンデ山頂に向かって右側にリフトがあったようだ。

「'86 SKI GUIDE(山と渓谷社)」には「(前略)パウダースノーに恵まれたなだらかなギャップの少ないファミリーが充分に楽しめる安全スロープとなって広がり、ゲレンデから東に南アルプス・八ヶ岳連峰・中央アルプスの3,000m級の山並を展望することができる」と記載されている。

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(左)雲の間から伊那谷を見おろす。(右)「冬の信州'76」を参考に作図。

放牧地の跡にはいくつかのトレッキングコースが整備されていて、気軽に歩くことができる。あいにくと天気が悪かったが、上部からゲレンデと反対を見おろせば、伊那谷を一望することができる。夏の花々が咲く中、シモツケソウの赤い色がことのほか印象に残った。(現地訪問:2009年7月、上段左写真のみ2009年8月)