2010年01月23日

北信州牧の入スノーパーク(中野市)[再開]

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(左)クワッドリフトの下からゲレンデを見上げる。(右)ヤマビココース・やまぴこ駐車場より左側は木島平スキー場。

北信州の盆地から見あげる高社山は、端正な独立峰をもたげて裾野を延ばしている。その高社山を囲んで、東側には北志賀エリアのゲレンデが広がり、北斜面には双子のように木島平スキー場とこの牧の入スノーパークがあった。牧の入のゲレンデは中野市と木島平村にまたがっていて、斑尾高原豊田スキー場が営業休止の間は中野市域唯一のスキー場でもあった。

1970年(昭和45)の開設。私は1987年3月に一度だけ、木島平との共通リフト券で滑ったことがある。あまり強い印象が残っていないが、上部に行くほど斜度がきつくなる比較的単純なレイアウト。最大斜度30度、最長滑走距離1,500m。最盛期にはクワッド1基・トリプル1基・ペア5基という規模を誇っていた。

ただ、最近はスノーボード専用ゲレンデのようで、スキーヤーとしては選択肢の中には入れづらかった。木島平・牧の入・高井富士3ゲレンデ共通券が発売されていた時期もあり、結びつきを強めてビックゲレンデとして売り出す方法もあったのではなかろうか。スキー場に囲まれて満身創痍との形容もされる高社山ではあるけれど。

メインのアクセスは飯山市街から千曲川を東岸に渡り、木島平村経由ということになるのだが、飯山まで行ったらどうしても斑尾・野沢温泉・戸狩といった方面に目が向きがちだった。同じエリア内でも、木島平がメインで牧の入はサブという印象はぬぐえなかったと思う。

昨年9月に運営会社(大和観光興産)から、今シーズンの営業休止が発表された。そのときの報道によれば「利用者減少に伴い、単独の経営は困難と判断した」との説明であった。バブル期に5億円台だった売上高はここ数年、4千万~4500万円で推移。累積赤字がふくらむ一方でスキー客が増える見通しは立たず、5年ほど前から営業休止を検討してきたという。「これから1年半をかけ、組織・体制の見直し及び立て直しを模索する」「一緒に経営してくれる相手を探したい」とのことで、今後の可能性を探っているようである。

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(左)第1リフト下からクワッド乗場の方向。(右)ゲレンデ下のロッジ・レストランなどは雪に埋もれ、人影はない。

日曜日の午後3時過ぎ。国道403号から木島平スキー場へのアーチをくぐる。木島平からの帰り車とすれ違いながら、途中で右折して牧の入に向かう。除雪されている駐車場に車を乗り入れ、圧雪車で固められているゲレンデ下部まで歩くことができた。ゲレンデの中心であったクワッドとトリプルの前に立つと、新雪に覆われたゲレンデが見渡せる。圧雪車もかたわらにあり、スタンバイしているかのようだ。

クワッドリフトの椅子も綺麗に並べられ雪を被っている。たまたま今年の冬が特別な出来事で、来シーズンからはまた何事もなかったかのように働くのだといいそうな表情である。ゲレンデ下に並ぶ何軒ものレストラン・ロッジ・土産物屋に人影はなく、扉を閉ざしてひっそりとしている。となりの木島平からリフト終了時刻を告げるアナウンスが、かすかに聞こえてきた。(現地訪問:2010年1月)

【追加報告】
Mt.KOSHAの一部として再開した牧の入スノーパークに滑りに出かけた。ゲレンデ下の駐車場まで「Mt.KOSHA」「牧の入」の案内表示は再整備されていた。正月休みなのでとなりの木島平は結構賑わっていたが、牧の入は閑散としていた。稼動リフトは第3ペア・第5ペア・第6クワッドとアナウンスされていたが、現地に行ってみると第5ペアは動かしていなかった。動かすほどの客もいなかったが。

よませ・高井富士・やまびこの丘・木島平・牧の入をあわせて共通リフト券を発売し、Mt.KOSHAとしたもの。ただ、よませ・木島平はスキーヤーが多く、高井富士・牧の入はスノーボーダーが多いゲレンデという印象が強く、そのあたりがこの「統合」でどうなるのか、気がかりなところ。

ゲレンデは圧雪などの整備はほとんどされておらず、新雪フリークには楽しいだろうが、一般客はなかなか楽しめないのではないだろうか。クワッド下にレストラン1軒、無料休憩所1軒が開いていたが、他は休業状態。周辺の宿泊施設もごく一部が再開したに過ぎないようだ。

隣接する木島平とは客層もかなり違うようだし、正月休みにこれだけの集客ならば、再開する意味があったのか、と思われても仕方ないだろう。(2012年1月)

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(左)第3ペア下から。(右)第6クワッド下から。

2013シーズンは「営業見送り」。現地を訪れても、リフトはとまっていた。(2013年2月)

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2014シーズンも牧の入のリフトは動いていなかった。(2014年1月)

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コメント欄にある通り、今シーズンより再開されるとのこと。近くに出かけたついでに覗いてみると、遅い時間だったためかリフトはとまっていたが、細々と営業している気配があった。第3ペアの乗場にはリフト1日券1,000円という案内もあり、駐車場やゲレンデも整備されていた。稼働リフトは2本のようす。(2017年1月)

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木島平に出かけた際に寄ってみるとリフト1本が稼働していた。人の姿はほとんど見られない。駐車場の一角に「リフト券売場」と書かれた真新しい建物が建てられていた。再び力を入れようということなのか。なお、木島平とはリフト券は別になっているもよう。(2017年12月)
ラベル:牧の入

2009年06月07日

大平スキー場(その1)(中野市/旧豊田村)

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(左)リフト乗場からゲレンデを見上げる。(右)リフト乗場にある看板にはかすかに「大平スキーリフト」の文字が。

今は中野市の一部となってしまった旧豊田村。長野市から見ると飯山や斑尾の手前にある感覚なので、近年、斑尾高原豊田スキー場が開設されるまでは、豊田村にスキー場があったとは思わなかった。「豊田村史」「長野県スキー史」によれば、昭和40年代には「涌井スキー場」「大平スキー場」がこの村にあったという。それらのスキー場の位置がわからなかったのだけれど、昔の国土地理院の地図(1/5万:中野)を見ると、北永江の集落の北東に索道の記号が掲載されている。大平スキー場はこの場所にあったようだ。

「豊田村史」によれば「1967年に地元有志により斑尾観光開発株式会社が設立され、翌1968年に大平山に初級者から上級者まで3コース・リフト1基(350m)・食堂・売店等が建設された」とある。長野方面からの交通機関の便もよく、雪質が良いことで脚光をあびたらしい。確かに飯山線替佐駅からバスなどを使えば、長野方面からもそう遠くはない。最寄の北永江の集落に民宿も開設され、近場のスキー場として親しまれたようだが、雪不足やスキー客の減少などで1975年に閉鎖に追い込まれた。

上信越道の豊田飯山ICの近くから、農道のような道を少し車で上ると道の脇にリフトの残骸があらわれた。リフト乗場の看板にはかすかに「大平スキーリフト」の文字も読み取ることができる。斜面を北に向かってリフトは上っていくが、ゲレンデだったと思われる場所には草木が生い茂っており、ヤブを掻き分けてようやく最初(2/7)のリフト鉄柱にたどり着くくらいが精一杯だった。リフト乗場に戻れば、眼下に上信越道の豊田飯山ICや国道117号の道の駅を見ることができる。

現在の積雪では、とてもこのあたりではスキー場は開設できないと思う。ここにスキー場があった時代を回想するしかないだろう。

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(左)リフト途中の鉄柱も残っている。

こちらもご覧ください→「大平スキー場(その2)」
ラベル:スキー 豊田村

2009年05月23日

戸狩小境スキー場(飯山市)

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(左)ゲレンデ最上部付近から見下ろす。 (右)ゲレンデ中腹に建つホワイトハウス(第3リフト乗場付近)。

戸狩スキー場は小学1年のとき、竹スキーなどではないまともなスキーを初めてしたところで、私にとっては思い出深い。その戸狩に隣接して、信濃平との間にあったのが、戸狩小境スキー場。その名前は、戸狩などに出かけたときによく耳にしていたが、ついに訪れる機会はなかった。1973年から1983年まで、10年あまりの営業期間だったようだ。

小境の民宿街から少し登ったゲレンデ中央だったと思われる場所に、ホワイトハウスと呼ばれていた建物が無残な姿をさらしながら残っているのが印象的だ。パトロールやスキー学校も入っていた建物らしい。ゲレンデ周囲には家屋が入り組んで、その境界が不明確なところは、古いゲレンデらしい。民宿が主体のスキー場で、「冬の信州(1977版)」には「なんといっても民宿や駐車場からスキーをつけてそのままゲレンデに行ける便利なファミリースキー場」との記載がある。

「'86 SKI GUIDE(山と渓谷社)」には「豪雪で知られる飯山市の北方に位置し、昼はのんびりスキーで楽しみ、夜は名産のえのき茸を使った郷土料理と地酒でゆっくりくつろげる静かで人情味豊かな豊田の里に開かれている。(中略)近くに戸狩スキー場があるためか、平日は比較的すいているので、スキー合宿には最高の条件」と記載されている。

信濃平と戸狩を結ぶ県道のすぐ西側からシングルリフトが1本(540m)。それに沿って初級コース。その右手上のホワイトハウス近くから、もう1本シングルリフト(600m)があり、それに沿って上級コース。そして大きく迂回するように中級コースがあったようだ。いまは一面畑地になり、スキー場の痕跡を残すものはあまり残っていない。

「長野県スキー史」によればリフト3基とロープトウがあると記載されているが、「飯山市スキー史」には、「リフト増設について何回か検討されたが計画は進展を見ないまま小規模なスキー場としての運営を余儀なくされた……」とあるから、リフトは結局2基のままだったのだろう。後発スキー場でありながら、戸狩などにくらべると立地条件にも恵まれず、1983年に閉鎖後は、戸狩スキー場へのスキー客送迎により民宿経営を続けたようだ。

夕刻の畑地の斜面に立つと、正面には野沢の毛無山や志賀高原の山々を望むことができた。(現地写真:2009年5月)

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(左)第一リフト乗場付近からゲレンデを見上げる。(右)「冬の信州'81」を参考に作図。 

2009年04月11日

七巻スキー場(その1)(野沢温泉村)

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(左)かつて渡し舟があったあたりの千曲川の流れ。左に桑名川駅、右が七巻。(右)七巻スキー場の跡地。少しゲレンデを登ったあたりから、リフトの痕跡と崩れかけた建物を見おろす。

七巻という地名は、古くから野沢温泉スキー場(上の平)からのツアーコースの終点として知られている。その七巻集落から少し山の中に、つまりツアーコースからいえば終点の直前に、七巻スキー場があった。

一方、七巻といえば千曲川の渡し舟でも知られていた。現在、国道117号は七巻集落のある千曲川右岸を走っているが、かつては千曲川左岸につけられていた。飯山線の桑名川駅も左岸にあり、そちら側に主要交通路が集中していたが、この付近には橋がなく、七巻集落から桑名川駅などとの間の往来はこの渡し舟に頼っていたようである。舟は通常、右岸に寄せられていて、対岸に舟があるときは一斗缶を叩いて合図をしたという。船賃は50円だったらしい。

はじめて七巻スキー場のことを耳にしたときには「そのスキー場に行くには、渡し舟に乗らなければならない」といわれ、たいそう驚いた記憶がある。残念ながら私は訪れる機会がなかったが、1970年代のスキーツアーの記録によれば、七巻にくだった後、渡し舟に乗り、桑名川駅から飯山線で帰途についたというものがいくつも見られる。せわしない今日ではローカル線と渡し舟に乗ってスキーに向かうなどという旅情が味わえたら、それは一種の贅沢だと思うのだがどうだろうか。その渡し舟も1983年に廃止されている。

さて、七巻スキー場は1967年12月に開業し、1982年に閉鎖となっている。国道117号から七巻の集落内を通り、南の方向に棚田の中を上っていくと右手にコンクリート製の人工物の痕跡が残っている。近づいてみると、リフト乗場のコンクリートの基礎部分と、その隣に崩れかけたトイレ、そして今は物置になっているらしい食堂の建物が隣接している。古いスキー場ガイドを見ると、500mのシングルリフトが1基あることが記されている。ゲレンデには低い木々が茂り始めていたが、北斜面でもあり、4月のこの時期にも中腹には残雪が見られた。シンプルな構成のゲレンデだったようだが、近場の人々が楽しむほかは、野沢から滑ってきた人たちが仕上げのひと滑り、という程度に過ぎなかったのではなかろうか。

北信州のしみじみとした歴史の中に、千曲川の渡し舟とともに、このゲレンデの記憶もとどめられることを願いたい。

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(左)低い木々に覆われ始めているゲレンデ。(右)「冬の信州'81」を参考に作図。

*当初、「七ヶ巻(なながまき)スキー場」として記載しましたが、当時はもっぱら「七巻(ななまき)スキー場」と呼ばれていたようなのでそちらに変更しました。

こちらもご覧ください→「七巻スキー場(その2)」

2009年04月05日

北飯山スキー場(その1)(飯山市)

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(左)第1リフト乗場付近 (右)第1リフトの鉄塔

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(左)第2リフト乗場からゲレンデを見上げる (右)第2リフトの鉄塔

北飯山スキー場は飯山線の北飯山駅から北西の方向にすすんだあたりに所在した。現在の交通路でいうと、国道292号線を国道117号との分岐から西に進み、トンネルをすぎて少し進んだあたりの南側の丘陵の北面ということになろうか。何の痕跡もないだろうと寄り道をしてみると、錆びついたリフトの鉄柱などがすっかり残っていた。

麓には「民宿」の看板を掲げた家もみられる。そんな一角に、赤錆びた第1リフトの乗場がある。鉄柱には「北飯山スキー場 第1リフト 昭和39年11月 北飯山観光開発」の文字が読み取れる。第1リフトの途中から右手前方に向かって、第2リフトがあったようだが、それもすっかり残っている。ゲレンデの多くは畑地になっているようだが、その雰囲気は地形から読み取ることができた。

記憶は曖昧だが、昭和40年代に飯山にいた伯父につれられてこのスキー場に来たことがあると思う。その頃のことだから、飯山の市街からここまで歩いて来たはずだ。1964年12月に営業を開始。1976年の春をもって営業を終了している。実際に営業していた期間は10数年にすぎない短命のゲレンデだったようだ。1973年には飯山国際スキー場が開設され、相互のゲレンデを連絡するロープトロイカを整備して再起をはかったが、各地に大規模なスキー場が誕生する中、スキー客の獲得は思うにまかせず閉鎖に至った(「飯山市スキー史」)という。

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(左)第2リフトの中間部とゲレンデ 

こちらもご覧ください→「北飯山スキー場(その2)」