2010年04月16日

小栗山スキー場(新潟県南魚沼市)

oguri_0042.JPG  oguri_0047.JPG
(左)関越道付近から見た小栗山。(右)ゲレンデ下部から見上げる。

魚沼の中心ともいえる街「六日町」。ミナミ・八海山などその街の名を冠するスキー場も多い。その六日町中心街の西側の丘陵地帯に位置した小栗山スキー場。市街地から関越道のガードをくぐり、丘陵地にぶつかって左折した場所にあった。「南魚沼郡誌(1971年3月)」によれば「地元スキーヤー、地元学校のスキー場として早くから利用されていたが、六日町温泉が湧出し温泉街が形成されたので、温泉付きスキー場の発展を期し、新しい施設をもった近代的スキー場として再発足するために地元有志が集まり企画した」とある。地元有力者の支援も受け、施設が急速に整備されたようだ。

西山温泉街に位置し、スキーと温泉が同時に楽しめるスキー場として発展した。しかし「ゲレンデコースが短く狭いので、地元スキーヤーの利用、地元学校のスキー場の域を出ず、土・日曜以外はリフトを運休し、ほとんど賑わいを見せない。すいているスキー場としてPRしているが、現状では今後急速な発展は望めない」と手厳しい評価がなされている。

一方「スキー天国にいがた(1975年12月)」は好意的な紹介をしている。「六日町駅から西に約1km、部落の人たちにより開設されたもので、素朴な雪国の人情そのままがスキー場にあらわれている。ゲレンデはきれいに整地されているので、少ない雪でも安心して滑ることができ、初心者・中級者向け。特に団体講習、あるいは会社、学校等のグループの競技会としては最適なところである。また、家族連れの方々にも大変喜ばれている」と案内されている。1962年(昭和37)の開設で、シングルリフト(300m)1基が設置されていた。営業終了時期についてまだ資料を見つけていないが、1980年頃ではないだろうか。

oguri_0048.JPG  oguri-map.JPG
(左)ゲレンデ下にある山岳荘。(右)「スキー天国にいがた」を参考に作図。

ゲレンデ下に山岳荘という大学生向けの宿泊施設があり、「厚生省指定 国民保養温泉場 六日町スキー場」と掲出されている。学生などの団体向けのスキー場だったようだ。ゲレンデ下の一軒の前で、ずっとこの土地に住んでいるというお母さんに話を聞けば「できた頃は大変な賑わいで、小学校のスキー教室もここ。でも周辺に大きなスキー場ができて皆そちらに行くようになってしまった」とのこと。見上げるゲレンデにはリフトの痕跡はなく、木が茂り始めていた。やはりコンパクトな感じだった。(現地訪問:2010年4月)
ラベル:小栗山

2010年02月27日

入広瀬中峰スキー場(新潟県魚沼市)

100227DSC_0057入広瀬中峯.JPG  100227DSC_0092中峯map.JPG
(左)役場や郵便局、小中学校がある入広瀬の中心街の背後の丘陵斜面にゲレンデが開かれていた。(右)「スキー天国にいがた」を参考に作図。

旧入広瀬村の庁舎(かつての村役場)の裏山のような場所にあった中峰スキー場。同じ新潟県内でも十日町市内に「下条中峰スキー場」があるので、区別するために「入広瀬中峰スキー場」と呼ばれていたようだ。「スキー天国にいがた(1975年12月)」によれば「中峰は日本最古の秘境といわれる奥只見郷の中にあり、雄大な自然と素朴な故郷の香りがいっぱいのスキー場である。スキー場からは越後の名峰浅草岳・守門岳の雄姿を一望にでき、約4万uの広々としたゲレンデは初中級者にぴったりで、ヨチヨチ歩きの子どもから年輩まで、ソリにスキーに楽しめるところである」と紹介されている。

入広瀬駅からは徒歩10分。起伏の少ない平坦なゲレンデで、12月初旬から4月下旬まで滑れるファミリースキー場と案内されている。地元で山菜が多く採れることから、「山菜共和国」を売り物にして、さまざまなイベントを開催した時期もあったらしい。1971年にリフト運行開始。営業休止年月については正確な資料を見つけていないが、1990年代と思われる。

魚沼市街(小出)から国道252号を只見方面に向かう。とはいうものの、この季節、新潟・福島県境の六十里越は冬期閉鎖で通行はできないから、只見まで辿りつくことはできないのだが。地理感があまりない土地であるせいか、ずいぶん山深い場所と感じられる。以前、関越国際大原には滑りに来たことがあるので、通ったことがある道なのだけれど、破間川に沿う谷は次第に狭くなり、雪が降りはじめたせいか何となく心細く感じる。しかし、入広瀬の中心街は思っていたよりも大きな町だった。

入広瀬庁舎(旧村役場)の背後の丘陵にゲレンデらしき雪面が見えたので車で坂道を上り近くまで行って見るものの、道の脇に続く民家と両側にうず高く詰まれた雪がゲレンデ斜面を視界から遮っている。もう少し道を進んだところからは、ゲレンデだった雪原の斜面を見上げることができた。ゲレンデへのアクセスルートもその下に埋もれているようだった。最大斜度25度、最長滑走距離は400m。シングルリフト(270m)1基、その上部にロープトウ(100m)1基。最上部には体育館があったらしいが、ゲレンデ下からは確認できなかった。山菜の季節になったら、登山などとあわせて再訪をはたしたいと思う。村落内のやや離れた場所から見れば、中心街のすぐ背後にあるような立地で、地元の人々を中心に愛されていたであろうゲレンデの姿がしのばれた。(現地訪問:2010年2月)

100227DSC_0054入広瀬中峯.JPG
(左)ゲレンデ下を通る車道から見上げる。

こちらもご覧ください → 2013年10月22日 入広瀬中峰スキー場(その2)

2010年02月12日

川口スキー場(新潟県川口町)

100213DSC_0011川口.JPG 100213DSC_0013川口.JPG
(左)下部からゲレンデがあった地点を見上げる。以前のゲレンデ脇のスペースは除雪車の駐車スペースとなっている。(右)「スキー天国にいがた」を参考に作図。

越後川口。私の住む長野から飯山線終点のその駅まで3時間をかけて直通する列車はいまも日に4本を数え、乗換案内などでその地名を耳にする機会は少なくない。信濃川と魚野川が大きく蛇行しながら合流する地点であるのが「川口」という名の由来だが、近く長岡市に合併する予定だと聞いた。「スキー天国にいがた(1975年12月)」には、「日本最古の伝統を持つといわれるヤナ場『男山漁場』をもち、春のヤマメ・カジカ・ハヤ、夏のアユ・マス・コイ、秋のサケ・ウナギと四季を通して川魚の味覚を求める客があとをたたない」との案内がある。

この川口の街の南東にある小丘陵に開かれていたのが、川口スキー場。1971年(昭和46)の開設。営業をやめた年月については正確な資料を見つけていないが、1990年代後半と思われる。川口町は2004年の中越地震で震度7という最大のゆれを記録し、甚大な被害を受けているが、その前に営業をやめていたと思われる。越後川口駅から徒歩15分。「スキー天国にいがた」には「東京からは上越沿線のスキー場の中では新潟に少しっこんだ感じで、ゲレンデ銀座を避けるには穴場かもしれない。眼下に魚野川の清流を望む新設のスキー場である」と紹介されている。シングルリフト(360m)が1本あり、最大斜度30度、最長滑走距離500mであった。

100213DSC_0015川口.JPG 100213DSC_0017川口.JPG
(左)国道17号からゲレンデ方向を見上げる。(右)中間部からゲレンデ最下部(左側)を見おろす。

国道17号を川口から魚沼(堀之内方面)に向かう。すぐに高架の関越道が国道をまたぐ地点があるが、その直前の「川口町運動公園」という看板に従って左折してすぐのところがゲレンデの最下部にあたる。道の東側にある家では「そのころはスキーのレンタルをしていた」と教えてくれた。丘陵を上って行く道の右側斜面にゲレンデが開かれていたようだ。最大斜度30度とのことだが、それなりの斜面もあったことを感じさせ、リフト沿いにまっすぐ下りる中級コースと左に迂回する初級コースくらいの判別はなんとなくできる。斜面左手の白い建物がレストハウスの役割を果たしていたらしい。

周辺は震災のあと整地されたそうで、リフトの痕跡も見あたらなかったが、手近な場所にありながら魚野川を眼下に望む滑走は快適だっただろうと思われる。ゲレンデ下部には住宅が建て込んでおり、また、丘陵の上部には温泉施設がつくられている。地元の人々により跡地を利用してコスモス畑がつくられていることを、以前ネット上で読んだ記憶がある。(現地訪問:2009年12月、2010年2月)
ラベル:川口スキー場

2009年12月20日

二居スキー場(新潟県湯沢町)

091220二居.JPG 091220DSC_0109二居.JPG
(左)二居民宿街への入口には看板が。(右)ゲレンデ跡地から二居民宿街と田代ゴンドラ(右奥)を見おろす。

国道17号線で湯沢から三国峠に向かう途中、二居トンネルを抜けた先にあるのが二居集落。かつては三国街道の宿場で、いまもその雰囲気がわずかに感じられる。国道の西側には田代ゴンドラの乗場があって、以前は田代スキー場の最寄の宿泊地といえばこの二居くらいしかなかった。その後、苗場・田代を結ぶゴンドラができて、田代で滑るなら苗場に泊まれといわんばかり。

現在も民宿やロッジが点在するこの二居集落の背後にあったのが、二居スキー場。私は東京在住時にはこの界隈によく出かけたのだが、もっぱら三俣に宿泊していたこともあり二居で滑ったことはなかった。ただ、友人から「田代に出かけたが、最終日は午前中、二居でのんびり滑って昼頃にはあがったよ」という話を聞いたこともあり、そのような使われ方もされていたようだ。またナイター営業がおこなわれた時期もあり、かぐら・田代にはナイター施設がないため「昼はかぐら・田代、夜は二居」という使われ方もあったようだ。ちなみに「みつまた」のメインゲレンデではかつてナイター営業していた時期があって、楽しく滑った経験があるのだが。

091220DSC_0114二居.JPG map_二居.JPG
(左)田代ゴンドラ駐車場から見た二居民宿街と二居ゲレンデ。

古くは国道に近い比較的緩斜面のゲレンデに第1リフト(300m)があったが、そちらは少し早く廃止されていたようだ。開設は1970年。民宿街を少し上がったところの小学校跡地の背後に第2リフト(350m)があったが、1999シーズンを最後に営業休止となり、その後廃止となった。小学校跡地から見上げる斜面は最大斜度30度とのことだが、ねじれのあるなかなかの急斜面に見える。こちら側正面にくだるのが上級コースで、裏を回るのが中級コース。ポールトレーニングのメッカで、地元のレーサー仕様に近いゲレンデだったようだ。現在はリフトの施設などは撤去されている。田代スキー場の入口でもあるので、二居地区の宿泊施設は営業を続けているところも多いようだ。

「スキー天国にいがた(1975年)」には、「上信越国立公園の中にあり、谷川連峰南端にあたる平標山を背に、苗場山赤湯温泉に囲まれ、四季を通して家族ぐるみのハイキング、登山、春はワラビとり、夏は涼み、秋はキノコ採りと賑わう」と案内されている。私自身は平標山・仙ノ倉山への登山を前々から考えているが、未だに果たせないでいる。(現地訪問:2009年11月)
ラベル:二居スキー場

2009年12月06日

土樽スキー場(新潟県湯沢町)

上越線の清水トンネルを抜けたところにある土樽駅。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」と川端康成が「雪国」で書いた、その信号所とは土樽駅にあたるのだろう。その土樽駅の駅前(駅裏?)にあったのが土樽スキー場。

091206DSC_0076土樽.JPG 091206DSC_0087土樽.JPG
(左)土樽駅前。上部後方に土樽山荘の建物が見える。(右)土樽駅下りホームからのゲレンデへの入口。以前は案内板があったらしい。中線2本を含め4本あった線路が2本になったため側線だった部分に新しいホームが設けられている。右手の斜面には以前、ロープトウがあったらしい。

「南魚沼郡誌 続編 上巻(1971年3月)」によれば、谷川岳の名ガイドでヒゲの大将と呼ばれた冒険家・高波吾策が、1941年(昭和16)に冬はスキー夏は谷川岳登山の基地として土樽山荘を建設したのがはじまり。上越線開通(1931年)直後からわずかながら日帰りスキー客があったが、山荘の建設により宿泊スキー客も加わって、昭和16年から18年頃までは連日500〜800人の賑わいがあった。その後、中里スキー場の開発により日帰り客のほとんどはそちらに吸収されていったということだ。最後には西武グループの傘下となったが、一連の西武系のスキー場廃止の中で2005シーズンを最後に営業を中止した。

以前からスキー場ガイドには「ゲレンデに車の乗り入れは不可」とわざわざ記載があった。いくらでも駐車する方法などあるだろうにと思っていたのだが。すでにリフト施設などが撤去されたゲレンデ下に立つのが土樽山荘であり、その前に若干の駐車場があるが宿泊者向けなのだろう。その他に駐車できる場所は土樽駅前だが、駅の裏側にあるゲレンデまで一般道を歩くとかなり大回りしなければならない。

その場合、土樽駅の改札口を通り駅構内の誇線橋を渡り下りホームに出てからゲレンデにたどり着くというルートをとっていたようだ。以前はそのルートを示す掲示が駅構内にもあったらしいが、いまは撤去されている。昔のスキー場ガイドには「上越線土樽駅前にあり、鉄道利用者に便利」と書かれているが、しばらく前からこの区間を走る列車は日に5本となり、スキーに使うのには厳しいダイヤとなっていた。列車を使った方が下りホームからすぐにゲレンデに入れるのだが。

091206DSC_0084土樽.JPG 091206DSC_0090土樽.JPG
(左)土樽山荘の前から見上げたメインゲレンデ。

駅ホームからゲレンデに入った場所に、古くはロープトウ(100m)が設置されていたらしい。その上にシングルリフト1本(400m)があった。2000シーズンのスキー場ガイド(立風書房)には「初級・中級者向けコース2本。ファミリー向け、ナイターなし。スキースクールが充実していて、バラエティのあるカリキュラムでみっちり練習を」と書かれている。

土樽駅のすぐ下には関越道が走っている。関越トンネル開通当初、まだ対面通行だった頃、帰路に関越トンネル入口の大渋滞に苛立ちながら、いつ東京にたどり着くかもわからない車を運転していたのはこのあたりだったのだろう。(現地訪問:2009年11月)
ラベル:土樽