2010年12月21日

加茂猿毛岳スキー場(新潟県加茂市)

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(左)正面に見える猿毛岳北西斜面にゲレンデは開かれていた。いまは杉の植林が広がるが、目を凝らすとリフトのワイヤーがその中に見える。

新潟県加茂市。古くから北越の小京都といわれ、栗ヶ岳を水源とする加茂川が流れる三方を山に囲まれた町。以前、車で通りかかったことがあるが、川沿いから眺めた風情ある佇まいが印象に残っている。

その市街地から加茂川を遡れば、ほどなく左手に猿毛という集落があらわれる。猿毛岳の西側に位置するこの集落から、山間に向かってダートの林道を進めば、やがて猿毛岳スキー場の跡地に到達する。高い煙突が立つコンクリート造のロッジの建物が崩れながらも残っているし、杉林の中に夜間照明塔が何基か建っていて往時をしのばせる。いまは農機具置場になっているらしい木造の建物も2棟あるが、それらもスキーと関係があったのではなかろうか。

ゲレンデは正面に見える猿毛山の北西側山腹に開かれていたようだ。急な斜面がひとつだけだったという記録を見たことがある。いまは杉の植林に覆われていて、木々の合間にわずかにリフトのワイヤーが残っているのが見えるくらい。正面の稜線の向こう側には冬鳥越という歴史あるスキー場があり、リフトの降場から反対側に見えたという。かつて蒲原鉄道(1985年に廃線)の駅前にあった冬鳥越にくらべれば、こちら猿毛岳スキー場は公共交通機関(蒲原鉄道の七谷か狭口あたりか)から降りてかなり歩かねばならず、アクセスには難があったようだ。

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(左)高い煙突が残るロッジの廃墟。(右)猿毛岳への登山道を示す標識がある。

ロッジから少しくだると、猿毛岳の登山道を示す標識が立てられている。その登山道とは逆に林道を少し北に進むと、右手の植林の中にリフトの残骸が残されていた。すっかり錆び付いて、はずされた椅子が脇に重なって置かれている。ワイヤーも錆びたまま、杉林の中でただ山頂を目指している姿が、いまとなっては寂しさを誘うだけだった。

2010年2月には猿毛岳で遭難事故が発生して、それが契機であらためてこの山が話題になったりした。猿毛岳スキー場は1960年(昭和35)1月に新潟交通によって開設され、3年後の1963年(昭和38)12月にリフトの設置などを含む整備が完成。リフト1基、ロープトウ1基、夜間照明、スキーロッジの施設を整えた。積雪はそれほど多くはなかったのか、雪不足に悩まされ続けたようだ。営業をやめた年代ははっきりしないが、1980年頃(昭和50年代)ではないだろうか。(現地訪問:2010年12月)

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杉の植林の中に錆びたリフト施設を見つけることができた。

2010年09月13日

悠久山スキー場(新潟県長岡市)

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(左)第四駐車場付近から前方の丘陵に向けてゲレンデが開かれていたと思われる。(右)公園内の地図にはいまもスキー場の文字が残るものも。

どんな都市にも、その土地の人々が心のよりどころとする公園のような場所があると思う。だいたいはその都市の郊外の小丘陵に開かれたような園地。新潟県第二の都市である長岡市でいえば、それは悠久山公園にあたるのだろう。長岡市街から南東へ数キロの距離。この悠久山公園に開かれていた悠久山スキー場は、長岡市民のホームゲレンデだった。その役割は今日では、悠久山からさらに南東に行ったところにある長岡市営スキー場に引き継がれているのではないかと思われる。

「スキー天国にいがた」(1975年12月)には「長岡市悠久山公園内の景勝地にあり、標高80m、面積35,000平米、初級・中級向であり、実力に応じたスキーができる変化に富んだスキー場で、滑走可能期間は、12月下旬から3月上旬まで。国鉄長岡駅(東口)からバス10分、下車して徒歩5~6分でスキー場に着く」と紹介されている。リフト1基241m、ロープトウ100m、ナイター施設もあった。スキー場開設は1959年(昭和34)。営業をやめた年月については正確な資料を見つけていないが、1990年代ではないかと思われる(その後、コメント欄にあるとおり、1999年終了と判明)。

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(左)手前にひょうたん池。その向こうにゲレンデだった斜面。

長岡市街から案内板にしたがって悠久山公園を目指す。主要な交差点には必ずといってよいほど悠久山を示す案内が出ている。蒼柴神社の入口脇を過ぎて右折してしばらく進めば、左手に公園の第四駐車場があり、ひょうたん池という池がその横にある。この一帯がゲレンデのエプロン部で、正面に見える小丘陵に向けてゲレンデ開かれていたようだ。ほとんど町の中といっていいような、このような場所にスキー場があったとはうらやましい話だ。リフト・ロープトウやナイター照明も撤去されたようで、スキー場の痕跡は見あたらない。見上げる斜面にも樹木が生い茂り、ゲレンデの様子を回想することは難しくなりつつある。

猛暑の8月の休日。それでも公園に設けられた小動物園には家族連れの姿が見られたし、多くの若者グループが木陰にシートを広げてビールを飲んだりして楽しんでいる様子だった。このような公園の多くはかつての輝きを失いつつある。しかし、スキー場が市民の憩いの場からも撤退しなければならなくなった、と考えると少し悲しくなった。(現地訪問:2010年8月)

2010年08月29日

鵜川スキー場(新潟県柏崎市)

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(左)左は綾子舞会館。向こうの丘陵に鵜川スキー場があった。(右)綾子舞会館の展示。

柏崎市街近くで日本海に注ぐ鵜川。その流域に位置する柏崎市南部の鵜川地区(女谷)には、約五百年前からきわめて古雅な歌舞「綾子舞」が伝えられている。出雲の阿国といえば日本史の教科書には必ず登場するが、その時代の初期歌舞伎踊りの面影を色濃く残す古典芸能として、1976年(昭和51)に国の重要無形民俗文化財に指定された。地域の人々により、いまも伝統継承の努力が続けられている。毎年9月の第2日曜には現地公開が行われ、多くの観客が集まるという。

この鵜川地区にもかつてスキー場があった。「スキー天国にいがた(新潟日報事業社・1975年12月)」の紹介によれば、「柏崎海岸からわずか16kmほど南の黒姫山麓に囲まれている鵜川地区一帯は平年で1.5~2mをこえる豪雪地であるが、市街地から近いため市民スキー場として親しまれている。バス停のすぐ上にスキー場があり、4万㎡のゲレンデに立つと女谷の部落からはるか兜巾山、尾神岳の美しい山容が望める。スロープの安全性は高く、女性や子どもたちも安心して滑れる家族向けのスキー場といえる。また、中・上級者向けのコースもあり、シーズン中はスキー教室も開かれ、市内小中学校のスキー指導などもおこなわれている」と記載されている。柏崎駅からバス50分。ロープトウ1基(200m)の施設があった。開設は1969年(昭和44)、閉鎖は1999年(平成11)3月であった。

「柏崎日報(1998年12月25日)」には、最後の年のスキー場開きのようすが報じられている。「30年間に18万人が訪れ、ピーク時は1シーズンで8,000人台を記録した。しかし、近年は暖冬少雪、施設の老朽化などもあって、入込客は最盛期の4割ほどに落ち込み、厳しい経営を余儀なくされていた」と記載されている。柏崎市長は「綾子舞会館のオープン、鵜川ダムの本体着工などを起爆剤とし、周辺整備にまい進したい」とコメントを残している。

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(左)女谷に入ると「綾子舞の里・鵜川」の案内板。この左手前方の丘陵に鵜川スキー場があった。(右)旧鵜川スキー場を示す案内表示も。

実は今年の1月にも一度、この地を訪れている。しかし、深い雪に覆われた真冬には国道353号沿いの「左折250m 綾子舞の森(旧鵜川スキー場)」という掲示を確認しただけで、左に曲がろうにも道は高い雪の壁に埋もれていた。スキー場の跡を見出すことはできなかったが、この地が豪雪地であることを身をもって知ったことだけでも意味があったと思う。雪深い冬に出稼ぎの留守を守る中で、前述の綾子舞も伝承されてきたといわれている。

猛暑が続く8月の一日、あらためて柏崎市街から田園風景の中、国道353号を南下する。中山峠という小さな峠を越えると女谷の小盆地に出る。綾子舞会館・右折を示す案内板の箇所を左に上っていく細い簡易舗装の道。傍らの民家の前で老人に聞いてみると、やはりその上にスキー場が開かれていたようだ。用心して車を脇に駐め、歩いて登っていけばほどなく平地に出て、畑地をはさんで目の前に樹木の少ない斜面があらわれた。草木が生い茂り、ゲレンデの跡はその中に飲み込まれそうに見えるが、ほどよい中斜面は地元の人々で賑わったであろう時代を語っているように思えた。帰り際に、綾子舞会館に寄ってみたが、ビデオによる綾子舞についての解説もあり興味深く見ることができた。(現地訪問:2010年1月・8月)

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(左)ゲレンデ直下から見る鵜川スキー場の跡。

2010年04月09日

小千谷山本山高原スキー場(新潟県小千谷市)

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(左)小千谷市郊外から見た山本山高原。右手にゲレンデ下部が見える。(右)ゲレンデ下部から見上げる。クワッドリフトは撤去されている。

小千谷市街から南に3kmほど行ったところにある小丘陵・山本山高原。その北西斜面にあったのが、小千谷山本山高原スキー場。1933年(昭和8)に山本山シャンツェ完成という記録が見られるので、相当に歴史の古いゲレンデのようだ。

「スキー天国にいがた(新潟日報事業社・1975年12月)」によれば「日本スキー史上に名高い山本山スキー場は広大な地域に豊富なゲレンデを有するスキー場である。山頂付近の雄大なスロープをはじめ、上信越連峰をのぞむ眺望のよさは訪れるスキーヤーを魅了する。北面のため雪質もすぐれ、初級から上級まで快適な高原スキーを楽しむことができるし、ツアーコースとして最適。ここには飛距離60mの上級シャンツェがあり、全国的競技スキーのメッカとして毎年にぎわっている」と紹介されている。

その後、クワッドリフトを備えた西武系のスキー場として1988年12月に改めてスタートをきったようだ。2004年10月の新潟県中越地震で被害を受け営業休止、2006年に廃業となった。クワッド1基、Jバー1基の設備で、ナイター営業もある市街地に近い都市型ゲレンデでもあった。最大斜度27度、平均6度。緩斜面中心のスキー場だったが、モーグルコースも備えていた。クワッド沿いの上部やJバーリフト沿いにはほとんど斜度がなく、スケーティングをしなければ進まない状態だったらしい。

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(左)山本山高原の山頂部。まだ、深い雪に覆われていた。(右)「オールスキー場完全ガイド2000(立風書房)」ほかを参考に作図。

両側に1m近い雪の壁のある車道をたどりながら、まずゲレンデ下部へとたどり着く。見上げると適度な斜面と思われるが、リフトは撤去され潅木が茂りはじめている。丘陵の南側を大きく回りこみ、こちらも雪の壁に囲まれた道をたどりゲレンデ山頂部に上ってみる。気候も良くなり、丘陵東側の展望台付近を散歩している人もいる。見おろせば信濃川が蛇行している様が見てとれる。アンテナの林立する山頂部は取りとめもなく広い様子だが、まだ深い雪に埋もれてその全貌をうかがい知ることはできなかった。(現地訪問:2010年4月)
ラベル:山本山高原

2010年04月02日

角万寺スキー場(新潟県十日町市)

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(左)東側から見た角万寺スキー場の全景。 (右)道路脇の案内板には「角万寺スキー場」の文字が。

市町村合併が進み十日町市も市域がずいぶん広くなった。信濃川左岸の旧川西町も十日町市の一部となったが、このような合併により地域の個性や特色が失われないでほしいと思う。
そんな旧川西町に所在していた角万寺スキー場。千手温泉の西側を南北に走る道沿いに「川西モトクロス場」の標識があり、それに従って西に曲がる。つきあたりにある寺の手前を右に行けば「角万寺スキー場」と書かれた建物があり、事務所・食堂と圧雪車の格納庫を兼ねていたようだ。その上の小丘陵にゲレンデ延長500m標高差50mのコンパクトな斜面が開かれていた。

「広報かわにし(昭和62年1月10日)」には「千手地区、通称角万寺に町営スキー場が完成し、昨年12月14日にスキー場開きが行われました。地元30代40代の有志の熱意と、大勢の寄付者の方々、それと町が協同して完成したスキー場です。管理棟とロープ塔(全長272.1m)の利用運営は、角万寺スキー場管理組合に委託することになっています」と掲載されている。地域の方々の努力で子どもたちのためにつくられたスキー場だった。当初は大変な賑わいだったようだが、徐々に賑わいも薄れていったようだ。現在までの調査ではスキー場としての活用がされなくなったのがいつかはっきりしないが、遅くとも2006シーズンには休止されていたようだ。

今冬は積雪が多く、3月下旬になっても1メートル近い雪が周囲の田畑を覆っている。かつてのゲレンデにもまだ十分に滑走にたえる積雪がある。どこからかスキーを楽しむ子どもたちの歓声が聞こえてきそうだ。小雪の舞う中、ゲレンデ下に立っていると、傍らの木から木へとリスが跳び移るのが見えた。里山の豊かさが感じられた。(現地訪問:2010年1月・3月)

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(左)ゲレンデ下の建物には、仮設トイレの裏に「角万寺スキー場」の文字。