2014年06月07日

芦沢高原スキー場(新潟県阿賀町)

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(左)「狐の嫁入り屋敷」の庭にある行列を模した人形。(右)ハーバルパーク最上部には体験工房などの建物。

新潟市から南東方向、阿賀野川を遡った山間部にある津川町。いまは、鹿瀬町・三川村・上川村との合併により阿賀町となっている。古くは会津藩の領地であり、街中の道路がかぎ型に折れ曲がるなど重要な拠点であったことをうかがわせる。津川といえば思い起こすのが「狐の嫁入り行列」。麒麟山の狐火を起源とする民話をもとに、毎年5月3日におこなわれる祭には住民の10倍にも及ぶ観光客が訪れるという。また、町内には「狐の嫁入り屋敷」があり、行列のジオラマなどが展示されている。

そんな津川の町の背後にある芦沢高原。磐越道・津川ICから南側に登った山腹に開けている。この芦沢高原にスキー場があったことは「スキー天国にいがた(1975年12月10日・新潟日報事業社)」に記載されている。「津川町を中心に点在するスキー場のひとつで、スキー場施設の少ない下越地方の人たちには格好のゲレンデである。歴史も古く、家族連れに適した初中級向きのスキー場でいつも明るい雰囲気がただよっている。鉄道:新潟から磐越西線1時間30分津川駅下車徒歩40分。施設:食堂・休憩所1箇所」とある。

また、「観光と旅16 郷土資料事典・新潟県(人文社 昭和45年6月5日初版 昭和50年4月15日改訂版)」では、芦沢高原について「出角山(485m)の中腹の高原で、眼下に津川平野がひろがり、常浪川と阿賀野川が合流している。高原には芦沢高原寮があり、ベランダに立つと飯豊山をはじめ県境にそびえる山々が美しく展開している。夏には多くの若者たちがテントを張って燃えさかるキャンプファイヤーを囲み、冬はなだらかなスロープのゲレンデで雪煙りをあげながら滑降を楽しんでいる」と紹介されている。

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(左)ハーバルパークの下部から斜面を見上げる。(右)ハーバルパーク上部から斜面を見おろす。

現在、芦沢高原の最上部には「ハーバルパーク」が整備されている。園内にはハーブをはじめ季節ごとの花が咲き、体験工房ではハーブ石鹸づくりなどの体験を楽しむことができる。最上部の建物の前で、ハーバルパークの仕事をされている男性に尋ねてみる。彼の話では、まさにこのハーバルパークの斜面がスキー場の跡地だという。ただかなり整地されたので当時の斜面の面影はあまり残されていないようだ。子どもの頃、自分たちで雪を踏んでゲレンデを整備し滑ったという。ロープトゥぐらいの施設があったかどうか、記憶は定かではなかった。昭和55(1980)年頃はここで滑っていたという。ゲレンデ最下部はハーバルパークの敷地を過ぎて、その下のいまはテニスコートになっている場所あたりまでだったという。

斜面は適度な傾斜で、快適なスキーが楽しめたと思われる。やはり、もっぱら地元の人々のためのスキー場だったのだろう。ゲレンデ下部を見やるとかつては津川の町や阿賀野川まで見渡せたのかもしれないが、いまは樹林が育って視界を遮っていた。ハーバルパークには美しい花が咲き乱れていたが、天候が思わしくないせいか訪れる人はあまりいないようだった。(現地訪問:2014年6月)

2014年03月01日

指合スキー場(新潟県村上市)

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(左)ゲレンデ最下部。駐車スペースと思われる場所も。さらにこの先にも広い駐車スペースがある。(右)下部からゲレンデを見上げる。

新潟県の地図を見ていて、このスキー場の名前を見つけた。いろいろと調べたけれど、資料がほとんどというほど見つからず、とりあえず現地に行ってみるしかないと思った。村上市内、国道290号の殿岡付近から東に川沿いに入って行く道をたどると指合(さしあわせ)という小集落に至る。その集落の南東側にある裏山のようなところに開かれていたのが指合スキー場だった。

ゲレンデ下は道を一本挟んでログハウスの作業場のようになっていた。道沿いには駐車スペースの面影のようなものが見られる。少し離れた場所にも駐車場があった。見上げるゲレンデは適度な中斜面に思えたが、植林が進められたようで植樹の記念柱も建てられていた。斜面の途中まででも上ってみようと思ったものの、背の高い草木に阻まれて、あえなく敗退した。

各地のスキー場が営業している1月初旬ではあったが、斜面には積雪がほとんどなかった。標高は村上の市街地とあまりかわらず、もともとあまり雪の多い場所ではなかっただろう。積雪があったときだけ。近くの人たちが滑りに来たという感じのゲレンデであったのだろうか。

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(左)裏に平成18年の日付がある記念植樹の碑。(右)遠景から。前方の山腹にゲレンデがあった。

近くの民家の前にいた方に聞いてみると「私は昭和63(1988)年にそのスキー場で滑っていて怪我をしたのだから、その年にはまだ営業していたということになる。ロープトウ1基だけのスキー場だった」という話だった。1990年代に廃止になったのではなかろうか。開設年ははっきりしない。(現地訪問:2014年1月)

2012年04月27日

中条町民スキー場(新潟県胎内市)

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(左)遠景から見た鳥坂山北面のゲレンデ跡。(右)右手はスポーツセンターの施設。奥の介護施設の裏に斜面がある。

胎内市を構成する旧中条町と旧黒川村の間を走る櫛形山脈は、南北約14kmしかない日本一小規模な山脈だと、登山ガイドブックには記されている。櫛形山脈の最北にある鳥坂山には、鎌倉時代から戦国時代にかけて鳥坂城が築かれていた。その鳥坂山の北斜面に開かれていたのが中条町民スキー場。

これまで調べたところでは開設・営業休止の年月は明らかでないが、20年程前には営業をやめていたのではないかと推測している。国道7号沿いで、トラックから荷物を降ろしている小父さんに声をかけてみると「鳥坂山の北側の、いまは介護施設があるあたり」だと教えてくれた。

「スキー天国にいがた(1975年12月10日・新潟日報事業社)」には、「町が冬期の運動不足を補うために設置したもので、初心者の人には適当なゲレンデである。コース及びゲレンデが狭いため500人くらいでいっぱいになる」と紹介されている。ロープトウ1基(120m、大人300円子ども100円)の施設があり、町民スキー大会やバッヂテストもおこなわれていたらしい。駐車場50台、食堂1軒30人収容、休憩所1箇所30人収容と記されている。アクセスは「新潟から羽越線50分中条駅下車徒歩30分またはバス5分、車では新潟から1時間」。

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(左)介護施設の駐車場から、木々が繁りはじめた斜面を見上げる。

中条の中心部から国道7号線を村上方面に進めば、まもなく右手に鳥坂山が見えてくる。「櫛形山脈登山口」「白鳥公園入口」という標識を見て右折して進むと、何軒かの介護施設の建物がある。その裏手がゲレンデだったようだ。スキー場休止後はスポーツセンターのようになっていたようで、ゴルフ練習場・フィールドアスレチック・バッティングセンターなどという掲示も見られた。

ゲレンデ最下部はゴルフ練習場に転用されたのか、ネットが巡らされ水平に整地された跡がある。斜面全体に木々が覆いはじめ、スキーを連想させるものも残されていないので、それと知らされなければゲレンデであったとは気づきにくい。なるほど500人でいっぱいになるという話もうなづける小さなゲレンデであった。(現地訪問:2012年4月)

2012年04月14日

赤谷スキー場(新潟県新発田市)

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(左)4月とはいえ両側に雪が高い綱木街道から、ゲレンデの遠景。(右)赤谷線(赤谷・東赤谷駅間)の鉄道橋の遺構。

今年は春先になってもいつまでも寒い日が続いたが、東京ではようやく桜が満開になったと伝えられた。そんな4月の週末、平野部の田畑には積雪はさすがに見られないが、新発田市街から赤谷への県道を進めば、雲は低く垂れ込め湿った雪が激しく降り始めた。道の両側に積み上げられた雪は高く、この地ではまだ季節は冬から抜け出していないのだと知らされた。

むかし、新発田から赤谷線というローカル線があった。赤谷鉱山の鉄鉱石運搬が主要な役割であったが旅客列車も走っており、終点の東赤谷は風情のあるスイッチバック駅であった。1984年に廃線となったが、いまもところどころその遺構を見ることができる。廃線跡と廃スキー場巡りの両方が楽しめる(?)といっていいだろうか。

赤谷スキー場のことを、上赤谷で買い物帰りの車から降りた小父さんに聞くと「綱木へ向かう道の左側。建設会社の資材置場になっている」と教えてくれた。それに従って、上赤谷の交差点を右折、通称・綱木街道を三川方面に進む。ほどなく左手一段上に建設会社の事務所と資材置場があり、その裏手に稜線までゲレンデが広がっていたと思われる斜面があった。

ところどころ樹木が繁り、スキー場だったことを示すものは残っていない。往時のようすを想像することはなかなか難しいが、4月上旬のこの時期にも雪がたっぷり残っているのだから、積雪には不自由のないゲレンデだったのだろう。ゲレンデ左手にロープトウがあったようだ。

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(左)資材置場の裏にゲレンデの跡が広がっている。

「スキー天国にいがた(1975年12月10日・新潟日報事業社)」には、「飯豊連峰の美しい山脈を背景に初中級向コースとして親しまれている眺望の良いスキー場である。近くには新発田市の観光地として内の倉ダム、加治川治水ダムがあり、四方山に囲まれた眺めもまた素晴らしく、特に10月下旬頃の紅葉の季節は見逃せない景観である」と紹介されている。ロープトウ1基(100m、6回券100円)の施設があった。アクセスは「鉄道 新潟から羽越経由赤谷線40分赤谷駅下車徒歩25分 車 新潟から1時間30分」とある。このスキー場の最盛期は、いまのように誰もが車を持っている時代ではなかったので、赤谷駅から歩くというのが一般的だったのだと思う。

スキー場営業休止の年月はわからなかったが、20年以上前ではないかと推測している。古くは近くに赤谷温泉もあり、景勝地としての賑わいもあったのではないかと思う。(現地訪問:2012年4月)

2011年06月20日

清川高原スキー場(新潟県阿賀町)

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(左)阿賀野川対岸より、斜面全体を見る。

新緑がまぶしい5月の休日。新潟方面から阿賀野川に沿う国道49号に車を進める。安田の町を過ぎると道は川にへばりつくようになり、大型車のすれ違いに苦労するようなトンネルもあらわれる。津川にある麒麟山に狐が多く住んでいたことに由来して、毎年5月3日には狐の嫁入り行列という祭事がおこなわれている(今年は大震災の影響で中止となった)。「狐の嫁入り屋敷」という体験施設もあり、伝説に彩られた土地でもある。津川の町の手前で標識に従って曲がり、清川高原に上っていく。このあたりの阿賀野川は途中に設けられたダムのせいもあるのだろうか、水量豊かに大河の風格を備えている。清川高原からは、滔々と流れるこの川の姿を見おろすことができる。遠く、残雪をまとった御神楽岳の姿が美しい。

津川の町から北の山腹に登ったような場所にある清川高原。その中心となる施設は「津川温泉・清川高原保養センター」。温泉を訪れている人も多いようだ。その受付でかつてあったスキー場のことを聞いてみると、「このあたり一面の斜面がスキー場だったそうですよ」という答え。そこから、斜面下にある京ノ瀬の集落にくだり、農作業をしている小父さんに声を掛けてみる。「あの保養センターの左側にスキー場の斜面があった。それから、あの杉林の左側にはジャンプ台があったよ」と教えてくれた。

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(左)山麓から斜面を見上げる。右手一段上が保養センター。その左側にゲレンデが広がっていたらしい。(右)保養センターから山麓を見下ろす。

「SKI GUIDE '86(山と渓谷社)」には、「県立自然公園阿賀野川ラインの中心麒麟山を眼下に滑走する周囲環境の素晴らしい丘陵南斜面に、11ヘクタールが変化に富んだ初・中級者向きゲレンデとなって広がる。近くに昔の小学校を改装した新潟市山の家があり、ここを宿にしてのスキー合宿も多い。標高150~100m、スキー場開設は昭和45年」と記載されている。シングルリフト(335m)1本の施設があった。滑走距離350m、最大斜度18度、平均斜度15度。さらに「リフト上部は初心者にはちょっとキツイが、尾根づたいに迂回コースをのんびりと楽しめる。下部はファミリーがソリ遊びをするのにも適している」とある。営業終了年は不明だが、1990年頃だろうか。

麓の集落から見上げる斜面にはしかし、リフト施設の跡などは見つけることはできなかったし、ゲレンデの様子をうかがい知ることは難しかった。この集落の一角に「山の家」もあったのだろうか。斜面を斜めに横切っている車道は、スキー場廃止後に道をつけかえたものではなかろうか。ゲレンデの一部を横切っているように見える。雪深いこの地でもようやく農作業によい季節となり、田畑で仕事をする姿がぽつりぽつりと見受けられた。(現地訪問:2011年5月)

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(左)津川温泉・清川高原保養センター。(右)津川付近を流れる阿賀野川。赤い橋は「麒麟橋」。